鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス
天下人と呼ばれた戦国武将、織田信長。
戦国の乱世の中、若くして台頭しながらもすごい勢いで戦力を拡大していきました。そして圧倒的に人数で劣勢ながら奇襲で勝利を収めた「桶狭間の戦い」や、先進武器、鉄砲を用いた「長篠の戦い」など歴史に残る戦を経て、豊臣秀吉、徳川家康へと続く天下泰平の基盤をつくりあげました。
今回はそんな織田信長の名言を紹介し、その言葉たちからの学びである「仕事をつくる」について考察します。
織田信長とは?どんな人? 生い立ち・生涯・経歴を紹介
2歳で城の城主となる
織田信長は1534年に、尾張国(現在の愛知県)で生まれます。父親は織田信秀は守護代に仕える清州三奉行のひとつを務め、今川氏豊から那古野城(現在の名古屋城)を奪うなど、尾張の中でも勢力を広げていました。
そんな織田家に生まれた信長は、若干2歳の時に信秀から那古野城を与えられ、城主となります。そのままその城で育った信長は12歳の時に元服(成人の儀式)をし、この時から「信長」という名前を名乗るようになりました。
そして翌年には初陣を果たし、また18歳の時に父が亡くなると家督を相続し、若くして大きな責任を背負うこととなります。しかし信長は傍若無人で粗暴な振る舞いから「尾張の大うつけ」と揶揄されていました。
若くして尾張を統一
そんな信長をみて家臣から離れる者もいたほどですが、大胆な信長はそのまま尾張の国を統一しようと動き出します。19歳の時に清洲城の織田信友を滅ぼすと、本拠を清洲城に移します。
その後、信長に反発し尾張で一定の権力を持っていた弟の信行を倒し、そして浮野の戦いにおいて岩倉城の城主、織田信賢を降伏させ、24歳で尾張国の統ーに成功します。
しかし世は戦国時代。統一したのも束の間、1560年、隣国駿河の大名、今川義元率いる2万5千を超える兵が、尾張に侵攻してきます。その時、対する信長の兵はわずか2千人でした。
鉄砲を使い長篠の戦いを勝利する
数で圧倒的に劣る信長は、雨の中で休息していた今川軍を奇襲する戦略をとります。これが桶狭間の戦いで、大雨の中攻めてくることはないだろうと、たかをくくっていた今川軍は急な攻め入りに態勢を立て直せないまま敗れてしまいます。
この大勝利により信長の名前は全国に知られるようになりました。勢いづく信長を討とうと全国の様々な武将が信長包囲網を張るなか、1575年に戦国最強と呼ばれた武田軍と対戦します。
長篠の戦いと呼ばれた有名なこの合戦で、信長は初めて鉄砲を実戦で使います。まだ性能が不安定だった当時の鉄砲ですが、新しい技術を取り入れる信長の大胆さが実り、この戦も大勝利を収めました。
明智光秀の謀反により死去
そして翌年の1576年には安土城を築き、天下統一のために羽柴秀吉(豊臣秀吉)などの家臣を地方に送り、一気に平定を図ります。
しかしそんな天下統一目前にして、家臣のひとりである明智光秀が謀反を起こします。秀吉への援軍を命じられていた光秀は「敵は本能寺にあり」と急遽、京都の本能寺に宿泊ていた信長を襲撃します。
兵を100人ほどしか配備していなかった信長は、大軍で押し寄せた光秀になす術はなく、最後は寺に火を放ち自害しました。織田信長は悲願の天下統一を目前に、49歳でその生涯を終えることとなりました。
織田信長の名言
必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ。
生まれながらに才能のある者は、それを頼んで鍛錬を怠る、自惚れる。しかし、生まれつきの才能がない者は、何とか技術を身につけようと日々努力する。
およそ勝負は時の運によるもので、計画して勝てるものではない。功名は武士の本意とはいっても、そのあり方によるものだ。
いつの時代も変わり者が世の中を変える。異端者を受け入れる器量が武将には必要である。
理想を持ち、信念に生きよ。理想や信念を見失った者は、戦う前から負けているといえよう。そのような者は廃人と同じだ。
仕事は自分で探して、創り出すものだ。与えられた仕事だけをやるのは、雑兵にすぎない。
だいたい人は、心と気を働かす事をもって良しとするなり。
言葉から見た、織田信長てこんな人!
イノベーションを起こした奇抜なリーダー
少年時代は「大うつけ」と呼ばれ、衣服を振り乱し、奇行とも取れる行いを繰り返していた織田信長。しかし、人と違った感性は、戦においては功を奏し、鉄砲を使うなどの先進的な戦いで勝利をおさめていきました。
また信長は軍事だけでなく、経済でもその力を発揮します。商人組合の「座」をなくす楽市楽座を行い、また道の通行にかかる税金をとっていた関所を廃止し、人の行き来を自由にしました。
このような革新的な政策により経済が活発になったと言われています。既存の価値観に縛られず、変革を大切にする。
そんな信長の精神は「いつの時代も変わり者が世の中を変える。異端者を受け入れる器量が武将には必要である。」という言葉からも感じることができます。
イノベーションを起こした奇抜なリーダー。それが織田信長という人でした。
織田信長の名言からの学び。[仕事をつくる]
前のめりに仕事へ向き合う
今回の織田信長の名言で印象的だったのが「仕事は自分で探して、創り出すものだ。与えられた仕事だけをやるのは、雑兵にすぎない。」という言葉でした。
世界の人口が76億といわれる現代。その中のほとんどの人は仕事をして生きているはずです。
膨大な人がいる中で、仕事の種類も無数に存在します。そして、それらに関わる人の気持ちは千差万別、人それぞれです。
仕事が好きだから働く、生きていくための手段として働く、特に理由もなく働く、、、そこには様々な動機があり、国が変わればその事情も大きく変わってくるでしょう。
そんな仕事への取り組みに正しいも間違いもないと思いますが、自らの仕事が発展していくための一つの重要な姿勢が、信長の言葉の中にあると感じました。
人は感情の生き物です。それゆえに感動がなければ心は動きません。そして心を動かすには意外性が必要です。意外性とはその人が予期していない事に生ずるはずです。
頼んだ以上のこと、与えた以上の仕事をした時に、意外性が生まれ、心を動かす感動へ変わる。もしかしたらそれは、頼まれた時間よりも少し早く仕事を終わらせるといった、些細なことでいいのかもしれません。
今回の織田信長の言葉に触れて、受けるだけでなく、それ以上に与える姿勢が人の心を動かすこと。仕事をする上での大切な姿勢を感じさせられました。
前のめりに仕事へ向き合う
初めて天下統一に近づいた戦国武将、織田信長の名言からそれを学びました。