失敗が人間を成長させると、私は考えている。失敗のない人なんて、本当に気の毒に思う。
世界のバイクシェアのナンバーワンを誇るHONDA。
その「世界のホンダ」を創立したのが本田宗一郎さんです。戦後、日本の経済成長を担った人物のひとり。
今日はそんな本田宗一郎さんの名言を紹介し、そこからの学びである「失敗ばかりの成功法則」について書いていきます。
本田宗一郎とは?どんな人? 生い立ち・生涯・経歴を紹介
自ら応募し自動車修理の世界へ
本田宗一郎さんは1906年に静岡県で生まれます。父親は鍛冶職人、母親は機織りと職人夫婦でした。そんなこともあってか本田さんは小さい頃から手先が器用だったといいます。
15歳の時、父が読んでいた雑誌でアート商会の広告をたまたま発見。このアート商会は東京で一流の自動車修理工場で有名でした。本田さんは幼い頃に村で見た自動車に感激し、それが忘れられずにいたため、この広告に心が惹きつけられました。
そこで自ら奉公依頼の手紙を書き、アート商会に送ります。運良く了承の返事をもらえた本田さんは小学校を卒業した後、アート商会の丁稚奉公として働くことになりました。
修理から製造へ
本田さんはそれから熱心に仕事に明け暮れます。アート商会の主人、榊原郁三さんは修理の技術に加え、経営者としても一流であったため、本田さんは技術の他にも様々な知識をそこで吸収していきました。
そして21歳の時、弟子の中で唯一のれん分けを許され、アート商会浜松支店を開業します。よそでは修理できないものを修理してしまうと、本田さんの技術は評判を呼びすぐに繁盛店となりました。
社員も増え修理業が拡大していくと、今度は製造業にも力を入れ始めます。1935年にアートピストンリング研究所を作り、昼は修理業、夜はピストリング開発と、寝る間も惜しまず開発に没頭しました。
本田さんは後にこの期間が人生で一番苦労したと語るくらい、何度も失敗を繰り返しながら、ようやく試作に成功します。そしてアート商会浜松支店は弟子に譲渡し、1939年に東海精機重工業株式会社を設立しました。
オートバイの開発
その後ピストリングの大量生産に成功し、トヨタ自動車と契約。会社はどんどん大きくなっていきました。
1941年に太平洋戦争が始まると東海精機重工業も軍需省の管轄下に置かれるようになり、軍艦や航空機の部品も手がける工場になります。終戦後、本田さんは会社をトヨタに売却、浜松に本田技術研究所を設立しました。
最初の仕事は補助エンジンを搭載した通称「バタバタ」と呼ばれる自転車。このいわゆる原動機付き自転車は飛ぶように売れました。
人々の生活に役立ち、喜ばれるものを作りたい。と、その後本格的にオートバイ開発に取り組みますが、道のりは苦難の連続でした。1949年に自動二輪車の「ドリーム号」を発売しますが、売れ行きは不振に陥り、会社も危機的な状況になってしまいます。
世界のホンダへ
そんな中で出会ったのが、後に副社長となる藤澤武夫さんでした。販売や経営の経験豊かな藤澤さんと本田さんは全くタイプが違ってはいたものの、妙に気が合ったと言います。
そして藤澤さんはホンダの経営に参加、それにより本田さんは技術開発に専念することができ、「技術の本田」と「経営の藤澤」と呼ばれるくらいに良きコンビとして会社を成長させていきました。
そして1958年にスーパーカブが発売され、翌年にはアメリカに販売会社を設立すると、ホンダのオートバイは売れに売れ、海外でも大成功を収めます。現在でも世界シェアのナンバーワンを誇り、多くの人々の日常を支えています。
そんな世界のホンダを作った本田宗一郎さんは1991年に84歳でこの世を去りました。
本田宗一郎の名言
伸びる時には必ず抵抗がある。
失敗もせず問題を解決した人と、十回失敗した人の時間が同じなら、十回失敗した人をとる。同じ時間なら、失敗した方が苦しんでいる。それが知らずして根性になり、人生の飛躍の土台になる。
私の最大の光栄は、一度も失敗しないことではなく、倒れるごとに起きるところにある。
困らなきゃだめです。人間というのは困ることだ。絶対絶命のときに出る力が本当の力なんだ。人間はやろうと思えば、大抵のことは出来るんだから。
人類の歴史の中で本当に強い人間などいない。いるのは弱さに甘んじている人間と、強くなろうと努力している人間だけだ。
人生は見たり、聞いたり、試したりの3つの知恵でまとまっているが、多くの人は見たり聞いたりばかりで、一番重要な“試したり”をほとんどしない。ありふれたことだが、失敗と成功は裏腹になっている。みんな失敗を恐れるから、成功のチャンスも少ない。
成功者は、例え不運な事態に見舞われても、この試練を乗り越えたら、必ず成功すると考えている。そして、最後まで諦めなかった人間が、成功しているのである。
苦しい時もある。夜眠れぬこともあるだろう。どうしても壁がつき破れなくて、俺はダメな人間だと劣等感にさいなまれるかもしれない。私自身、その繰り返しだった。
言葉から見た、本田宗一郎てこんな人!
失敗そして失敗。失敗を楽しみ愛した人
本田宗一郎さんの言葉には今回ピックアップした言葉以外にも「失敗」という文字が本当に多く出てきます。
世界的な自動車メーカーに成長させる道には、多大な失敗が積み重なり、その経験たちが成功へと導いたのだと感じさせられます。
ホンダの経歴だけみてしまうと順調そうにみえますが、事実、経営が危機的な状況は何度もありました。それでも、失敗しても失敗しても次の成功を見据えながら行動し続ける。
そこにはただ苦しさだけでなく、「楽しさ」もきっとあったはずです。失敗を乗り越えた先に得た充実感や達成感は、困難であればこそ、より忘れられないものになったことでしょう。それがホンダをここまで大きくしていきました。
誰もが恐れるような失敗を楽しみ愛した人が本田宗一郎という人でした。
本田宗一郎の名言からの学び。[失敗ばかりの成功法則]
失敗からしか行けない道がある。
本田さんの言葉にあふれる失敗の文字は全く悲観的なものではなく、次の成功の「手がかり」へと、いつも前向きに捉えられていました。
三重苦と言われる障害を持ったヘレンケラーは「ひとつの幸せのドアが閉じる時、もうひとつのドアが開く。しかし、よく私たちは閉じたドアばかりに目を奪われ、開いたドアに気付かない。」とも言いました。
失敗を失敗と認識するのは自分自身です。そしてそれを失敗として置いとくのか、経験、ターニングポイント、教訓、啓発、、、などに変えていくのか。それもまた自分自身です。
失敗ばかりで心が折れそうな時こそ、それをどう解釈するか。とても難しいですが大切なんですね。
失敗は「諦める」という動詞の先にあるもので、諦めなければ失敗はない。月並みですが本田さんの言葉からその普遍性を感じました。
失敗から学び、失敗からしか進めない道を行く。
失敗しながら自分の道を切り開き、世界のホンダを創った本田宗一郎の言葉からそれを学びました。