太陽の光と、よい食べ物と無用の心配をなくすこと。それが病気を防ぐ根本である
アメリカの医師、エリザベス・ブラックウェル。
世界で初めて公的に認められた女性医師です。医者は男性の仕事が常識だった世の中で、また女性蔑視の強い時代に数々の困難にあいながらもその夢を実現させました。後年は女子医学校を設立し、女性医師の育成と活躍に尽力した偉人です。
今回はそんなエリザベス・ブラックウェルの名言を紹介しその言葉たちからの学びである「環境を受け入れ進む力」について考察します。
エリザベス・ブラックウェルとは?どんな人? 生い立ち・生涯・経歴を紹介
イギリスの港町で生まれる
エリザベス・ブラックウェルは1821年にイギリス南西部の港町であるブリストルで生まれます。父親は製糖工場を営む経営者で、ブラックウェル家の暮らしは裕福なものでした。
しかし工場の経営は次第に傾いていき、エリザベスが11歳の時には不運にも工場が火事に見舞われてしまいます。これをきっかけに一家はアメリカへの移住を決断します。
父親はオハイオ州のシンシナティで再び工場を始めますが、事業はなかなかうまくいきませんでした。そのまま体を悪くしてしまった父はエリザベスが17歳の時に亡くなってしまいます。
父親が亡くなり家計を支える必要に迫られたエリザベスは、母親と妹と一緒に学校を設立し、教師として働き始めます。
母の友人の言葉で医者になることを決意
そんなある日、エリザベスは末期の子宮がんを患った母親の友人を見舞います。その時に母の友人はエリザベスに「もし女性のお医者さんがいたら恥ずかしい思いをしなくて済んだのに・・・」と言ったといいます。
今は当たり前のようにいる女性医師ですが、当時は1人もいない時代、そんな考えをするのは常識外れなことでした。しかしエリザベスは彼女の言葉を受け、自分が初めての医者になろうと決心したのでした。この時、エリザベスは24歳でした。
その2年後、26歳になったエリザベスは医学の都と呼ばれていたフィラデルフィアに移住します。そこで入学できる医学校を探しますが、どこも女性というだけで入学を断られてしまいます。
ようやく12校目に訪ねたジェネヴァ医学校がエリザベスを受け入れてくれました。念願の医学の道へ踏み出しますが、学校でエリザベスを待っていたのは辛い男女差別でした。
外科医を目指すも片目を失明
まわりの男子学生だけでなく、教師からも授業の拒否などの嫌がらせを受けます。そんな日々にもめげず彼女は黙々と勉学に励みます。そして夏休みに救貧院で働く機会があり、そこで当時流行していたチフスに感染した患者と触れ合います。その経験から論文を発表し高い評価を受けます。
その論文は救貧院の不衛生な環境とチフスとの関係性について論じられており、当時はあまり認知されていなかった予防医学についても書かれていました。
この実績もありエリザベスは28歳の時に学校を首席で卒業し、医師免許を取得します。ついに世界で初めての女性医師となったのでした。そして外科医を目指そうと当時医学の最先端であったフランスのパリに向かいました。
しかしフランスはアメリカ以上に女性蔑視の強い国で、医師免許を持っていても受け入れてくれる病院はなかなかありませんでした。最終的にエリザベスが紹介されたのは助産師の見習いの仕事で外科とは程遠い業務でした。
そんな環境でもエリザベスは諦めることなく、懸命に仕事に励む日々をおくります。しかしそんなある日、悪性眼炎の子どもを看病し不運にも自身の目に感染してしまい片目を失明してしまいます。
世界初の女子医学校を創設
外科医にとって片目が見えないことは致命的で、エリザベスは外科医の道を閉ざされてしまいました。失意の中、29歳になった彼女はロンドンの病院にインターンで働くこととなります。
イギリス滞在中に出会ったのがフローレンス・ナイチンゲールで、2人は医療の理想を語り合う良き友人関係となりました。
ナイチンゲールとの出会いにより、医師として将来に希望を見出したエリザベスはその後アメリカに戻り、小さな診療所を開設します。女性医師差別が大きいアメリカでは大きな試練の連続でしたが、女性医師が活躍する世界を、という志のもと彼女は尽力します。
そして女性医師の育成も考え1868年、47歳の時に世界初の女子医学学校を創設しました。そこでは先進的な予防医学を教え、そして翌年にはロンドンにも女子医学校を設立しました。
晩年まで女性医師の活躍できる世界を開拓し続けたエリザベス・ブラックウェルは1910年、89歳でその生涯を終えました。
エリザベス・ブラックウェルの名言
私は嬉しい。他人ではなく、私が開拓者としてこの仕事をするのだということが!
社会が女性の自由な発展を認めないのであれば、社会を改造しなければなりません。
パイオニアになるのは簡単ではありませんが、ああ、それは魅力的です!私は一瞬、最悪の瞬間でさえ、世界のすべての富と交換するつもりはありません
外側の覆いがいくらか壊れているにもかかわらず、人間の内側の心が純粋なままであるかもしれないと私が見つけたとき、私の希望は高まります。
あるクラスの女性が行ったり学んだりすることは、彼らの共通の女性性のおかげで、すべての女性の財産になります。
私は自分の考えを夢中にさせる何か、この真空を満たし、この悲しい心の消耗を防ぐ人生の何かを持っている必要があります。
私たちの学校教育は、健全な発展のルールを千の方法で無視しています。
言葉から見た、エリザベス・ブラックウェルてこんな人!
喜びで困難に立ち向かった人
世界で初めて女性医師となったエリザベス・ブラックウェル。今では当たり前のように活躍している女性医師ですが、昔その仕事は男性だけのものでした。
エリザベスが医師を志したのは、母親の友人を看病した時の「女性の医者がいたら良いのに・・・」という何気ない会話がきっかけでした。
しかし男性だけの医学界でエリザベスの存在はかなり異端であり、実際に学校すら入学を断られるほどでした。それでも彼女は強い志のもと、一つずつ目の前の困難に打ち勝ちながら、また女性蔑視という多くの迫害に屈することなく歩み続け、ついに世界初の女性医師として医師免許を取得しました。
文字通り常識を変えたパイオニア(開拓者)です。
幾度となく辛い状況に遭いながらも、彼女は女性医師の必要性を信じ、それが自分に与えられた使命として喜びで試練を超えていきました。
それは彼女の「私は嬉しい。他人ではなく、私が開拓者としてこの仕事をするのだということが!」という言葉からも感じることができます。
喜びで困難に立ち向かった人。それがエリザベス・ブラックウェルという人でした。
エリザベス・ブラックウェルの名言からの学び。[環境を受け入れ進む力]
環境を嘆かず愚直に邁進する
今回のエリザベス・ブラックウェルの名言で印象的だったのが「外側の覆いがいくらか壊れているにもかかわらず、人間の内側の心が純粋なままであるかもしれないと私が見つけたとき、私の希望は高まります。」という言葉でした。
世界初の女性医師となったエリザベス・ブラックウェルが置かれた環境はとても過酷なものでした。女性蔑視、差別が当たり前の世の中、また男性しかいない医学界で女性であるエリザベスが普通に教育を受けることすら困難でした。
そんな理不尽さにもめげることなく、エリザベスはひたすらに自分の志を実現させようと進んでいきました。
人それぞれ与えられた環境は違います。生まれながらに富や権力、多くの機会に恵まれた人もいれば、明日生きるのにも精一杯の人もいます。
しかし、日本は世界的に見ると安全で飢えとは程遠い国であり、日本という場所に生まれただけで、恵まれていると言えるはずです。僕もそうですが人は与えられたもの、元から備わっているものに盲目的で、無い物ねだりに良い環境を求めがちになります。
たとえ何かに恵まれていなかったとしても、強い想いや志があれば、状況はいくらでも変えられる。その可能性は誰にでもある。エリザベス・ブラックウェルの人生を知るとそう感じぜざるを得ません。
自分の置かれた環境を受け入れ、それを嘆くのではなく強い志を持って進む力。
その愚直な歩みこそ大きな変革を起こすのだと、エリザベス・ブラックウェルの言葉から学びました。