我、女成りけるもの
日本の小説家、樋口一葉。
わずか24年の生涯でありながら「たけくらべ」や「にごりえ」などの歴史に残る名作をいくつも残しました。また5千円札の肖像画になるなど現代の暮らしの中でも馴染みのある偉人です。
今日はそんな樋口一葉の名言を紹介し、その言葉たちからの学びである「今を生きるという意識」について書いていきます。
樋口一葉とは?どんな人? 生い立ち・生涯・経歴を紹介
読書好きな優秀な子ども
樋口一葉は1872年に東京で生まれます。父親は政府の役人を務めていて、また商才があったことから金融業などで成功を収めていました。そのため一葉が小さい時は比較的裕福な生活を送ります。
一葉は幼少期から物覚えが早く、新聞を父に読み聞かせるなど頭の良い子どもだったといいます。そのため同世代の子どもたちと遊ぶよりも読書をする事を好んでいました。
そんな一葉は小学校入学するといつも一番の成績でした。しかしあと一年で卒業となった時、母親が「学問よりも裁縫などの家事が必要」と考え学校を辞めさせてしまいます。
退学に反対だった父親は勉強が好きだった一葉を不憫に思い、歌の塾である「萩の舎」に入門させます。その時の一葉は14歳、そこで和歌や書などを学びました。
家族を養うために小説の道へ
しかしその後すぐに家を継ぐはずであった兄が結核で急死してしまいます。また父親が財産のほとんどを注ぎ込んで始めた運送事業に失敗し、巨額の借金を負うこととなります。父親も心労がたたって間もなく亡くなってしまい、一葉は若干17歳で多くの負債と樋口家を背負うこととなってしまいます。
一葉は残された母と妹の3人で針仕事などの内職に励みますが、報酬は微々たるもので、借金は膨らんでいきます。そんな時、萩の舎の先輩の田辺竜子が小説で多くの原稿料を得ていた事を知ると、一葉は生活のために小説家になる事を決心します。
しかし小説の書き方もわからないため、すぐに大きな壁にぶち当たります。そこで妹の友人から小説家の半井桃水を紹介してもらい、弟子になった一葉は小説のいろはを習います。
文芸誌「武蔵野」で初めての小説の発表
そして半井桃水が文芸誌の「武蔵野」を創刊することとなり、一葉は初めての小説である「闇桜」を発表しました。
その後、桃水のもとを離れ一人で執筆活動を行うようになった一葉。しかしその才能は早くから注目され、有能な作家が集う「文学界」という雑誌に小説を連載するようになります。
しかし実体験を伴わない自分の想像だけの小説に限界を感じ、執筆に行き詰まるようになります。小説がうまく書けなくなった一葉は生活のために吉原遊郭近くの町に引越し、そこで駄菓子などを売る雑貨屋を始めます。
14ヶ月の間で名作執筆
その町で生活する人たちは親を亡くした子供や身売りをされた女性など、社会の底辺とされた暮らしと悲しみを背負っていました。一葉はそんな人たちと触れ合いながら、また自身の苦しい境遇も合わせ、再び筆を取ります。
そしてその経験をもとに書き上げたのが、不朽の名作となる「たけくらべ」でした。そこから執筆活動を再開した一葉は「にごりえ」や「ゆく雲」「十三夜」などの代表作を次々と発表します。
これらの代表作はわずか14ヶ月の間に書かれたものでした。そして樋口一葉は兄と同じく肺結核におかされ、わずか24歳でその生涯を終えることとなりました。
樋口一葉の名言
色に迷う人は迷えばいい。情に狂う人は狂えばいい。この世で一歩でも天に近づけば、自然と天が機会を与えてくれるだろう。
母上に安らかな生活を与え、妹に良縁を与えることが出来るなら、私は路傍にも寝ようし乞食にもなろう。
昔の賢人たちは心の誠を第一として現実の人の世に生きる務めを励んできたのです。務めとは行いであり、行いは徳です。徳が積もって人に感動を与え、この感動が一生を貫き、さらには百代にわたり、風雨霜雪も打ち砕くことも出来ず、その一語一句が世のため人のためになるものです。それが滾々として流れ広まり、濁を清に変え、人生の価値判断の基準となるのです。
一番大切なことは親兄弟の為や家の為にすることです。
力もない女が何を思い立ったところでどうにもならないとは分かってはいるが、私は今日一日だけの安楽にふけって百年後の憂えを考えないものではない。
このような時代に生れ合わせた者として、何もしないで一生を終えてようのでしょうか。何をなすべきかを考え、その道をひたすら歩んで行くだけです。
命ある限りはどんな苦しみにも耐え、頑張って学問をしたいと思う。
言葉から見た、樋口一葉てこんな人!
家族のために生きた人
若くして亡くなりながらも、小説家として歴史に名を残すほどの作品を生み出した樋口一葉。
有名な文豪、森鴎外も「まことの詩人」と絶賛し、一葉の死を知った時には、別れを惜しみ葬儀の参列を申し出たほどでした。当時、軍人がひとりの女性の葬儀に出ることは常識では考えられないことでした。
そんな人の心を惹きつける非凡な才能を見せた樋口一葉ですが、その小説を書く動機はお金を得るため、家族を養うためのものでした。
晩年に多くの名作を書いたのも家族のためを思い、自分の体を犠牲にしてまで心身投入し残したものだったのでしょう。
それは彼女の「母上に安らかな生活を与え、妹に良縁を与えることが出来るなら、私は路傍にも寝ようし乞食にもなろう。」という言葉からも感じることができます。
家族のために生きた人。それが樋口一葉という人でした。
樋口一葉の名言からの学び。[今を生きるという意識]
時代を嘆かず今を生きる
今回の樋口一葉の名言で心に残ったのが「このような時代に生れ合わせた者として、何もしないで一生を終えてようのでしょうか。何をなすべきかを考え、その道をひたすら歩んで行くだけです」という言葉でした。
今とはかけ離れた男尊女卑の時代に生まれ、女性だからと辛く惨めな思いをしたことも数知れなかった樋口一葉の人生。
女性であること、身分や富の差を嘆く言葉もありながら、この時代を受け入れ、懸命に生きようとした強い意志がこの言葉にはあります。
現代も昔と違った問題は数あれど、その歩みは確実に前進していると感じます。
偶然か必然か、現代に生きることになった身として、どう生きるのか、何をすべきか。それを考えることはとても大事なことだと感じます。
過去の人たちが積み上げてきた歴史から学び、今を嘆くよりも自分が出来る事を考え、日々を過ごす。その意識一つが大切なのだと樋口一葉の人生と言葉に触れて感じました。
時代を嘆かず今を生きる
短命ながら後世に残る多くの作品を生み出した小説家、樋口一葉の言葉からそれを学びました。