優れた人は静かに身を修め、徳を養なう。
古代中国、蜀の国の政治家、諸葛孔明。(本名:諸葛亮)
魏、呉、蜀からなる三国時代、三国志として現代でも人気が高いこの時代は、映画、小説、漫画など様々な媒体で題材化されています。
その三国時代で誰よりも存在感を表したのが諸葛孔明でした。隣国と同盟を結び三国時代へ導くなど、歴史小説「三国志演義」の中では様々なエピソードでその人物像が描かれています。
今回はそんな諸葛孔明の名言を紹介し、その言葉たちからの学びである「心穏やかに欲張らないことの大切さ」について考察しました。
諸葛孔明とは?どんな人? 生い立ち・生涯・経歴を紹介
幼少期に両親を失う
諸葛孔明は181年に現在の山東省にあたる徐州で生まれます。父親は郡の副長官を務めていました。孔明が幼少期に母親は亡くなり、父もその後を追うように孔明が8歳の時に死んでしまいます。
両親を亡くした孔明は叔父の諸葛玄に弟と一緒にひきとられ、その後、荊州(けいしゅう)に移り住みます。しかし叔父も孔明が17歳の時に反乱に敗れ命を落としてしまいます。
弟と2人で生きていくこととなった孔明は、荊州が学問が盛んであったこともあり、勉学に力を入れるようになります。
三顧の礼で劉備が訪ねてくる
当時から人よりも秀でた才があると感じていた孔明は管仲や楽毅といった歴代の政治家・武将と自らを比較していましたが、周囲の大人たちは口先だけだと笑っていました。
しかし友人であった徐庶や崔州平はその言葉と、孔明の才覚を感じ取っていました。そんな孔明が広く名前が知られるきっかけが、歴史的にも語り継がれる「三顧の礼」です。
後に蜀(しょく)の国の初代皇帝となる劉備(りゅうび)は、戦に敗れた後、自分の支えとなる優れた人材を探していました。そしてその時劉備のもとを出入りしていた徐庶は孔明の名を劉備に伝えます。
「孔明を連れてきて欲しい」と頼んだ劉備ですが、徐庶は「孔明は呼びかけに来るような人物ではない自ら会いにいくべき」と語ります。その時劉備は47歳で孔明は27歳。また一国の武将として名前が知られていた劉備が名もなき青年を訪ねていくことはかなりの異例でした。
しかし劉備は徐庶の助言を聞き入れ、2度の不在で会えなくとも諦めずに訪問し、3度目にしてようやく孔明に会うことができました。この訪問が三顧の礼と呼ばれています。
天下三分の計を助言し、三国時代へ
劉備の熱意に心打たれた孔明は軍師として劉備を支えることを決意します。そして当時孔明たちにとって一番脅威だったのが、中華を統一しようと勢力を拡大していた魏の曹操(そうそう)でした。
曹操とまともに戦うのは困難だと考えた孔明は、呉の国の孫権(そんけん)と手を結び、曹操と対抗した方が良いと劉備に提案します。これが後に「天下三分の計」と呼ばれる戦略でした。
そして孔明は自ら孫権のもとに赴き、同盟を説得します。そして208年に大軍で攻めてきた曹操の軍と長江中流にある赤壁でぶつかります。その時、曹操の兵が20万に対して劉備の孫権の連合軍はわずか5万足らずでした。
しかし水上の戦を苦手としていた曹操軍はこの戦いに大敗を喫し、侵攻を断念、国へ戻って行きました。こうして孔明が唱えた曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀の国からなる三国時代が到来します。
最期まで義を持ち国に尽くす
そして221年、孔明は蜀の最高の官吏の立場となる丞相(じょうそう)に就任します。その後すぐに劉備が亡くなったことで、孔明はより一層、外交や内政の中心となっていきました。
国の平定を目指した孔明ですが、南方の民族などから反乱に遭います。それを抑えこもうと軍を率いて対した孔明ですが、敵将の孟獲を捕らえると、生かして帰しました。
孟獲は懲りずに反乱を続け、7度も孔明に捉えられますが、毎回殺されることなく逃されました。そんな武力だけに頼らない公明の姿勢に、最終的に孟獲は反乱することをやめたと言われています。
これは七縦七擒(しちしょうしちきん)と呼ばれる有名なエピソードで孔明の性格をよく表していると語り継がれています。
そんな数々の物語を残した諸葛孔明は234年、魏の武将司馬懿(しばい)との戦の最中、病に倒れ54年の生涯を終えることとなりました。
諸葛孔明の名言
我欲が強くては志を保つことはできない。一心に努力し、物事の深遠の境界に達する。
人の心をつかめる人は、敵を消滅できる。古来、兵は戦を好まない。
無欲でなければ志は立たず、穏やかでなければ道は遠い。
自分の心は秤のようなものである。人の都合で上下したりはしない。
立派な人間の友情は、温かいからといって花を増やすこともなければ、寒いからといって葉を落とすこともない。どんな時でも衰えず、順境と逆境を経験して、友情はいよいよ堅固なものになっていく。
天下は一人の天下にあらず、すなわち天下の人の天下である。
高位に身を置きながら威圧的な態度を取らず、勲功がめざましくても誇らず、才能があっても賢者に礼遇する、剛直でありながら人を包容する。
兵を統率する心得は、人の和を得ることにあり、人の和があれば命令されなくても人々は自ら戦おうとするようになる。
言葉から見た、諸葛孔明てこんな人!
武より心を大切にした人
人気高い中国三国時代でもひときわ存在感を放った諸葛孔明。蜀の皇帝、劉備に軍師として招かれながらも、その働きは役職以上のもので、国内外に大きな影響を与えました。
三国統治の時代になると、すぐに君主の劉備が病で亡くなってしまいます。劉備は遺言で「我が子が不足と感じた時は、皇帝として国を治めてほしい」と孔明に言い残ました。劉備はそれほどの大きな信頼を孔明に寄せていました。
孔明自身も劉備への忠義を近い、自分は丞相という立場のまま最後まで劉備の息子である劉禅に、よく働きかけ仕えました。
そんな義に熱い孔明の印象的なエピソードが七縦七擒です。乱世の中、敵を捕まえながら逃すのは、更なる報復を予感させます。実際に反乱は7回も起こました。度重なる攻撃にも孔明は武力ではなく、敵の心に働きかけ続けました。
そしてついに敵はそれに感服し、二度と反乱は起こさなかったといいます。もし武力で押さえつけていたとしたら一時的に内乱をおさめることができたかもしれません。しかし孔明は長期的な平安のため武に頼らない道を選び、それが最善だと信じていました。
それは彼の「人の心をつかめる人は、敵を消滅できる。古来、兵は戦を好まない。」という言葉からも感じることができます。
武より心を大切にした人。それが諸葛孔明という人でした。
諸葛孔明の名言からの学び。[心穏やかに欲張らないことの大切さ]
自分以外に向ける無欲な志
今回の諸葛孔明の名言で印象的だったのが「無欲でなければ志は立たず、穏やかでなければ道は遠い。」という言葉でした。
3大欲求という言葉があるように、人間には本能的に備わった欲望があります。その欲があるからこそ、向上心や行動力などが生まれ、それが生きることへの原動力となることもあるでしょう。
しかし強い欲望、求めすぎた欲で人はいつも失敗します。それは歴史をみてもそうで、何かを成した偉人も強欲により時には命を落とすなど、悲惨な末路になることも珍しくはありません。
このような歴史上の失敗を見ても、強欲、言葉を変えると自分だけに向けられた欲に繁栄はないのだと感じさせられます。
孔明は権力に固執せず、亡き主人のため、国の平定のために最期まで尽力しました。
志とは「何かのため」「誰かのため」という公的な精神からくるものであり、「何かをしたい」という自分の欲望はそんな周りを活かすために使われてこそ、本当の価値を持つのだなど今回の諸葛孔明の言葉に触れて感じました。
自分以外に向ける無欲な志
中国三国時代の偉人、諸葛孔明の名言からそれを学びました。