スターや有名人の仲間入りをすることなど、どうでもよい。モデルの仕事のすばらしさは、国境を越えて仕事ができることだ。
ソマリア出身のモデル・活動家のワリス・ディリー。
13歳で遊牧民の実家を家出、その後ロンドンに渡りメイドとして働いている時に、フォトグラファーに声をかけられモデルの世界へ。ロンドン、パリ、ミラノ、ニューヨークなどでハイブランドや有名雑誌のモデルとして活躍しました。またソマリアで伝統的にされてきたFGM(女性性器切除)廃絶への活動も行っています。
今回はそんなワリス・ディリーの名言を紹介し、その言葉たちからの学びである「批判を乗り越える力」について考察しました。
ワリス・ディリーとは?どんな人? 生い立ち・生涯・経歴を紹介
13歳の時に家出
1965年ワリス・ディリーはソマリアで生まれます。家は遊牧民で、幼い頃から家畜を育てながら、水や草地を求めて転々とする生活をおくります。
ソマリアの6割は遊牧民と言われており、その中でも家畜をたくさん持っていたワリスの家は裕福な方だったといいますが、実際は食べるにも困る日があるなど、生きるのにも厳しい暮らしでした。
ワリスが13歳になった時、父親がラクダ5頭と引き換えに老人との結婚を決めてしまいます。老人がいつワリスを迎えにくるかわからない中、ワリスは母の妹が住むソマリアの首都モガディシュを目指し家出を試みます。
夜の砂漠を何日も歩きながら、ワリスは命かながらモガディシュにたどり着きます。その後奇跡的に姉や親戚の家を発見し、無事にモガディシュで生活できるようになりました。
ソマリアからイギリス、ロンドンへ
その後、母の妹であるマルイムの夫がソマリア大使であり、駐在先のロンドンでメイドになれる人を探していると知ります。大きなチャンスだと直感したワリスは半ば強引にメイドに志願し、ロンドンにいけることになりました。
ロンドンに着くとワリスは朝から晩までメイドとして働きます。そして2年が過ぎた頃、大使の妹の娘を学校まで迎えに行った時に怪しげな男から声をかけられ「写真を撮らせて欲しい」と頼まれますが、ワリスは怖くなりその場から逃げ去ります。
ロンドンでの生活も4年が過ぎると大使のロンドンでの任期が終わり、全員でソマリアへ帰ることになりました。しかしワリスはソマリアに戻ることを拒み、パスポートを無くしたと言ってイギリスに残ります。
しかし、行くあてもないワリス。たまたまに立ち寄った洋服店で、ソマリア人のハルウと出会い、声をかけます。そして仲良くなるとYMCAに住んでいるという彼女の部屋に身を寄せることになりました。
マクドナルドでモデルのスカウト
ハルウの手助けもあり、ワリスはマクドナルドで皿洗いの仕事を始めました。そして仕事にも慣れたある日、以前写真を撮らせて欲しいと頼んできた怪しげな男に偶然遭遇します。
彼の名はマルコム・フェアチャイルド。ファッションフォトグラファーをしており、ワリスを一目見た時から2年もの間、彼女の横顔を撮影したいと思い、探し続けていたと言います。
誘われるままマルコムのスタジオに行き、撮影をすることとなったワリス。「私がイギリスに来たのはこのためだったのかもしれない」とワリスはファッションモデルという仕事に心躍らせます。
マルコムの紹介でモデルエージェントに所属することになったワリスは、いきなり世界的な写真家テレンス・ドノヴァンが手がけるピレリのカレンダーのモデルに大抜擢されます。
FGM廃絶の活動に尽力
その後はあまりイギリスでの仕事に恵まれなかったため、ワリスは黒人モデルの本場とされるニューヨークに渡ります。そしてハイブランドや有名ファッション雑誌のモデルを務めるなど、人気モデルとなっていきました。
ある日、ワリスはファッション誌のマリ・クレールのインタビューでアフリカで伝統的に行われてきた「女子割礼」について語ります。そのショッキングな内容はたちまち話題を集め、テレビ番組でもワリスの人生と女子割礼のについての特集が組まれました。
そしてワリスは国連の特別大使に任命され、女子割礼廃絶の活動に注力していきます。彼女の活動もあってFGM(女性性器切除)は現在までに大幅な減少傾向にあります。国連は2012年にのFGM禁止決議を採択し、2030年までにFGMを絶滅することを目標にしています。
ワリス・ディリーの名言
割礼に怒りを感じていても、わたしは両親を恨んではいない。母のことも父のことも愛している。両親もまた、何千年も変わることなくつづいてきた悪しき慣習の犠牲者なのだ。
幸せというのは、なにかをもつことではないということも学んだ。わたしはなにももっていなかったが、とても幸せだった。もっていないものに対しては感謝の念がわく。わたしたちはなにももっていなかったから、なんにでも感謝した。
わたしは、アフリカで生まれたことを毎日、神に感謝している。本当に毎日。わたしはソマリア人であることを誇りに思っているし、ソマリアという国を誇りに思っている。
お金もなく、ものを言う力もない、わたしの母のような砂漠の女性たちを、いったいだれが救ってくれるのだろう。声なき少女のかわりに、だれが叫んでくれるのだろう。同じ遊牧民として、わたしはこうした女性たちのために、自分が声をあげなければならないと感じるようになった。
わたしが思うすぐれたファッション写真家は、あらかじめ写真家が抱いているイメージをモデルに押しつけるのではなく、モデル本来の個性を引き出し、強調してくれる人である。
行くべきとこ ろもなく、相談する人もいないけれど、人生は目の前にひらけている。きっとなんとかなる。なんの根拠もないのに、そんな気がしてきた。
いまでは、自分の脚に誇りがもてる。この脚にはわたしの過去があるから。過去の生活の遺産だから。わたしはこのO脚で、何千キロもの砂漠をわたってきた。波のように揺れる歩き方も、アフリカの女に特有のもの。これらがみんな、わたしがどこから来たかを物語っている。
ワリス・ディリーの名言を引用・参考にした文献
言葉から見た、ワリス・ディリーてこんな人!
自分を信じ前進することやめなかった人
ソマリアの貧しい遊牧民から、世界で活躍するトップモデルへの道。絵に描いたようなサクセスストーリーですが、彼女の著書を読むと並大抵の苦労ではなかったんだと、当たり前ですが感じさせられます。
13歳で家出をし、野生動物や強姦などから逃げ、やっとのこと都会にたどり着き、親戚を頼ってロンドンに渡るも教育もほとんど受けることのないメイドの立場で働きながら、偶然出会ったフォトグラファーにモデルとして生きていくことを見出される。
モデルとして成功してからも様々な苦難がありました。そんな激しい人生の中で、辛さに耐えかね諦めるシチュエーションはいくつもあったと思います。実際彼女も幾度か自殺も考えたとこともあると振り返っています。
それでもワリスは自分の可能性と未来に常に希望を持っていました。「自分はできる」その強い思いがモデルという天職に出会わせ、大きな成功へと繋げたのだと、
ワリスの「行くべきとこ ろもなく、相談する人もいないけれど、人生は目の前にひらけている。きっとなんとかなる。なんの根拠もないのに、そんな気がしてきた。」という言葉からも感じさせられます。
自分を信じ前進することやめなかった人。それがワリス・ディリーという人でした。
ワリス・ディリーの名言からの学び。[批判を乗り越える力]
自分以上の大きな大儀のために力は発揮される
今回のワリス・ディリーの名言で印象的だったのが「お金もなく、ものを言う力もない、わたしの母のような砂漠の女性たちを、いったいだれが救ってくれるのだろう。声なき少女のかわりに、だれが叫んでくれるのだろう。 同じ遊牧民として、わたしはこうした女性たちのために、自分が声をあげなければならないと感じるようになった。」という言葉でした。
彼女が雑誌のインタビューで女子割礼のことを語ったのは1997年。当時は毎年200万人、毎日6000人の少女が割礼を受けるとされていました。
近年国際的な働きかけもあり、大幅な減少傾向にあるFGMですが、ワリスの祖国ソマリアなどでは未だにその慣習が強く残り、多くの女性が苦しんでいます。
それはやはり何千年も続いてきた伝統であることが拭えません。女性は「大人になるための儀式」としてその慣習を受け入れ、割礼は清く美しいものであるという文化が浸透しています。
特にその伝統意識が強いソマリア出身のワリスによる告白は、大きな波紋を呼びます。実際彼女の主張に批判的な言葉を浴びせる多くは同郷のソマリア人たちだったと言います。そしてワリスも伝統を痛いほどわかっているため、自分に多くの批判が集まることは覚悟していました。
しかし、それでも多くの傷ついた女性たちのため、この慣習をなくずべきだと強く感じ、批判以上の大義のためにFGM廃絶の主張をやめることはありませんでした。
子どもを守る母親のように、時に人は自分以外の存在のために大きな力を発揮します。自分が嘲笑の目や、批判にさらされることがあっても、それ以上に守りたいものや、変えたい現実、大義があるのであれば、より大きな力となり困難も乗り越えていけるのだと、ワリス・ディリーの言葉に触れて感じさせられました。
自分以上の大きな大儀のために力は発揮される
遊牧民からスーパーモデルになったワリス・ディリーの名言からそれを学びました。