何より大事なのは、人生を楽しむこと。幸せを感じること、それだけです。
映画「ローマの休日」でアカデミー賞主演女優賞を獲得し、トニー賞、エミー賞、グラミー賞など主要な賞を全て獲得した数少ない俳優の一人であるオードリーヘップバーン。
今回はそんな世界的な女優オードリー・ヘップバーンの名言を紹介し、その言葉からの学びである「犠牲の上に成り立つもの」について書いていきます
オードリー・ヘップバーンとは?どんな人? 生い立ち・生涯・経歴を紹介
戦争の中で育つ
1929年、イギリス人の父とオランダ人の母の間に生まれたオードリーヘップバーン。場所はベルギーの首都ブリュッセルでした。
しかしヘプバーンが小さい時に両親は離婚、母親とヘプバーンはイギリスに移住し、その後母の故郷であるオランダのアーネムへ移り住みます。ヘプバーンは10歳の時にバレエを始め、アーネム音楽院に入学しバレエを学びました。
しかし、時代は第二次世界大戦の真っ只中。戦争中立国だったオランダにも、当時猛威を振るっていたドイツのナチスが侵攻してきました。ヘプバーンの親戚は反ドイツ運動に関係してたとされ処刑や強制収容所に送られました。
ヘプバーンと母親も偽名を使いながらなんとかドイツ軍から身を隠します。そんな戦時中の生活は貧困を極め、ヘプバーンは栄養失調を繰り返す日々でした。この時期、ヘプバーンと同じ年に生まれたアンネフランクもオランダに住んでいたと言われています。
バレリーナから女優の世界へ
そんな生活の中でもヘプバーンはバレエを続けていました。戦時中は反ドイツ運動の資金を集めるためにバレエ公演を行う事もあったといいます。将来プリマ(女性バレエダンサーの最高位)を有望視されていたヘプバーンですが、身長が高すぎたためその道を諦め、家計を支えるために出演料が高額な舞台女優の世界へ進むことになりました。
1950年頃からは映画にも徐々に出演するようになります。その翌年、映画のロケでフランスに訪れたところ、たまたまその場に女流作家のガブリエル・コレットがいました。彼女は自身の作品に合う俳優を探しており、ヘプバーンをみるなり「主役はこの人だ」と一目惚れ。ヘプバーンは主役に大抜擢されました。
この作品の出演の後、ヘプバーンの代名詞ともなる有名な映画「ローマの休日」の出演を果たします。この作品で映画初の主役をかざり、作品も大ヒット。ヘプバーン自身もアカデミー主演女優賞などの賞を獲得し、一気にトップ女優に登りつめます。
数々の世界的な賞を獲得
その後も「麗しのサブリナ」や「ティファニーで朝食を」などなど、次々に話題作に出演していきます。ハリウッドでは10年間にわたってスター女優として活躍しました。
また生涯で映画界のアカデミー賞の舞台のトニー賞、音楽業界のグラミー賞、テレビ業界のエミー賞などの世界的な賞を獲得した数少ない人物の1人でもあります。
年を重ねた晩年の映画作品では、ありのままの姿でいることを恐れなかった女優としても有名で、若さを取り繕うことなく、シワや老いを普通に、自然に見せることを心がけていました。
晩年はユニセフの活動を本格化
ヘプバーンは女優業のほかにも長年にわたり行ってきた活動がありました。それがユニセフでの貧しい子どもたちへのチャリティ活動でした。これは自身の戦争中の貧しい体験が起因していたと言われています。
58歳の時にユニセフの親善大使に任命され、その後本格的にユニセフでの活動を始めます。エチオピアへの訪問をかわりきりに5年間で中南米や東南アジアなどの国々を50回以上にわたり訪れ、世界に貧困の現状と支援の重要性を訴えました。
そんなユニセフ活動のさなか、訪問先のソマリアからスイスの自宅に帰ってすぐ、体調を崩してしまいます。検査の結果ガンが発見され、またそれは身体中に転移していました。その数ヶ月後、家族に見守られながら63歳で息を引きとりました。
オードリー・ヘプバーンの名言
歳を重ねると、自分に手が2つあることを知るはず。1つは自分自身を助けるため、もう1つは他者を助けるために
一夜にして成功したわけではないわ。1部屋しかないフラットに母と2人で住んでいたし、生活費を稼ぐために、8年間、無名のダンサーもしたわ。演技の勉強をしたことがなく、まったく白紙の状態だったわ。それでも、あの“魔法の”120分が実現するまでに、何年も何年も努力を重ねていたのです。
満足に食べられず、命の危険を身近に感じ、爆撃の不安につきまとわれる。そういった経験から、安全な生活や自由の価値を教えられました。そういった意味では、つらい経験はわたしの人生にプラスに働いたと言えるでしょう。
戦争を経験して、逆境に負けない強靭さが身につきました。また、戦争が終わって戻ってきたもののありがたみをつくづく感じました。食料、自由、健康、家庭、そして何より人の命に、深い感謝の念を抱いたのです。
何としても避けたかったのは、人生を振り返ったとき、映画しかないという事態です。
どんな日であれ、その日をとことん楽しむこと。ありのままの一日。ありのままの人々。過去は、現在に感謝すべきだということをわたしに教えてくれたような気がします。未来を心配してばかりいたら、現在を思うさま楽しむゆとりが奪われてしまうわ。
わたしにとって最高の勝利は、ありのままで生きられるようになったこと、自分と他人の欠点を受け入れられるようになったことです。
言葉から見た、オードリー・ヘップバーンてこんな人!
女優は生きる為。経験が人格を映し出す
ヘプバーンの言葉にもあるように、彼女はキラキラした女優の世界への憧れからその道に進んだのではなく、始まりは生きる為、生活する為の手段でありました。
しかし役者としての経験はなくても、戦争という過酷な状況を乗り越えた彼女の経験は人を惹きつける魅力的な人格へと成長させたのだと、ヘプバーンの言葉に触れて感じさせられました。
「何としても避けたかったのは、人生を振り返ったとき、映画しかないという事態です。」という言葉にもあるように、ユニセフなどの慈善事業にも積極的に取り組み、女優としての枠に収まらない一人の人としての生き方を示してくれていた気がします。
それも幼い頃の過酷な経験がそうさせているのかもしれません。
オードリー・ヘプバーンの名言からの学び。[犠牲の上に成り立つもの]
多くの犠牲により現代はつくられている
ヘプバーンの名言には戦争の経験からくる言葉が多くあります。
同い年で、同じ国で幼少期を生きたアンネフランクとヘプバーン。彼女はのちに「アンネの日記」をテーマにした舞台の出演依頼を受けますが、自分には「感情的に不可能」としてその依頼を断っています。
それは戦争の過酷さと、同い年に生まれながら15歳で亡くなったアンネフランクへの強い想いも感じさせられます。
「戦争を経験して、逆境に負けない強靭さが身につきました。また、戦争が終わって戻ってきたもののありがたみをつくづく感じました。食料、自由、健康、家庭、そして何より人の命に、深い感謝の念を抱いたのです。」という彼女の言葉にもあるように、改めて今生きれていることは過去の人たちの犠牲の上に成り立っている命なんだと強く感じました。
今は平和な日本ですが、唯一の被爆国であり戦争で多くの命が奪われた過去があります。そしてそれはどの国でも同じことで、過去の人たちの犠牲が今の時代をつってくれている。
そう思うと、日々の「普通」という時間が訪れることに、自然と感謝の気持ちが湧いてきます。
世界的な大女優オードリーヘップバーンの言葉からそれを学びました。