杉原千畝の名言からの学び。[愛を行動の指針とする]

杉原千畝の名言からの学びのイラスト1偉人の名言

人間にとっていちばん大切なのは、愛と人道だ

日本の外交官、杉原千畝

東洋のシンドラー」とも呼ばれた杉原千畝は、第二次世界大戦の時、ナチスドイツによって迫害されていたユダヤ人の命を救うため外交官としての立場をも顧みずビザを発行し、6000人以上のユダヤ人を救いました

今回はそんな杉原千畝の名言を紹介し、その言葉たちからの学びである「愛を行動の指針とする」について考察します。

杉原千畝とは?どんな人? 生涯・経歴を紹介

杉原千畝の名言からの学びのイラスト5
  • 父親の反対を押し切り英語教師を目指す
  • 19歳で外交官留学生となる
  • 37歳でヨーロッパへ赴任
  • ユダヤ人のために6000人分のビザを発行

父親の反対を押し切り英語教師を目指す

杉原千畝は1900年に岐阜県で生まれます。父親は税務署で仕事をしていました。そのため転勤が多く、千畝の小学校時代は転校続きでした。

それでも学校の成績はオール5で、とても優秀な子どもだったといいます。そんな千畝を父親は医者にしたいと望み、仕事で赴任中の韓国の医学専門学校に入学させようと試みます。

しかし、英語の教師になりたかった千畝は父親の意に反し、医学専門学校の受験会場まで行くも入試を受けませんでした。父親から激怒された千畝ですが、自分の意思を曲げることなく、その後早稲田大学高等師範部英語科の予科に入学します。

19歳で外交官留学生となる

父親に逆らったため、仕送りのない貧乏生活を送ることとなりますが、ある日、公費で勉強ができる外交官留学試験の案内を図書館で見つけます。そして猛勉強の末、見事合格を果たし留学生となりました。

そして19歳になった千畝は、中国のハルビンに派遣されロシア語を学びます。ここでも暇を惜しんでは勉強を続け、4ヶ月ほどで日常会話に困らない程度までロシア語は上達していました。

そんなロシア語の能力をかわれ、24歳の時には外務省書記生としてハルビンの日本領事館で働きます。1932年に満洲国の建国が宣言されると、千畝は満洲外交部に派遣されます。ここで外交官として大きな成果を残しますが、外交部の体質に嫌気がさし3年で辞職しました。

37歳でヨーロッパへ赴任

その後日本の外務省に戻り、37歳の時にフインランドの日本大使館へ赴任することとなります。そして、その2年後にはリトアニアに渡り日本領事館の領事代理の職を務めます

千畝がリトアニアに赴任した同じ年、ドイツがポーランドを侵攻したことで、第二次世界大戦が勃発します。そして当時ヨーロッパで猛威を振るったのがヒトラー率いるナチスでした。

ホロコーストと呼ばれるユダヤ人迫害を掲げたナチスは、ヨーロッパ中のユダヤ人を虐殺、または強制収容所に連行します。リトアニアにいたユダヤ人たちは、なんとかしてナチスから逃れようと、日本領事館に押し寄せました。彼らが助かるにはソ連から日本を経由し、他国へ行く道しか残されていませんでした

ユダヤ人のために6000人分のビザを発行

しかし、日本政府はそのためのビザの発行を行わないように命令します。それでも目の前の人々の命を見捨てられない千畝は、独断でビザを発行することを決断します。

そこから約1ヶ月の間に千畝は寝る間を惜しんで6000人以上のユダヤ人にビザを発行し、彼らの命を救いました。その後はヨーロッパの領事館を転々とし47歳で日本に帰国、そのまま外務省も辞めました

その後は得意の語学を生かし貿易会社で働き、主に海外を生活の拠点としていました。そして1985年にはユダヤ人の命を救った功績により、イスラエル政府から日本人として初となる「ヤド・バシェム賞」が贈られました。その翌年、杉原千畝は86歳でその生涯を終えました。

杉原千畝の名言

杉原千畝の名言からの学びのイラスト2

あの人たちを憐れに思うからやっているのだ。彼らは国を出たいという、だから私はビザを出す。ただそれだけのことだ。

世界は大きな車輪のようなものです。から、対立したり、争ったりせずに、みんな手をつなぎ合って、回っていかなければなりません。

やっと順番がまわってきました、といってね、ひざまずいて、ぼくの足にキスをする女の人がいたんだよ。その姿を見て、この人たちがどれほど苦しい思いをしてきたかが、痛いほどわかったよ。

ここに百人の人がいたとしても、私たちのようにユダヤ人を助けようとは考えないだろうね。それでも私たちはやろうか。

苦慮、煩悶の揚句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。そして私は、何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し終えたと、今も確信している。

一晩中、私は考えた。考えつくした。私のしたことは、外交官として間違ったことだったかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。そして、それは人間として正しい行動だった。

大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです。

私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く。

言葉から見た、杉原千畝てこんな人!

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自分の義を貫いた人

杉原千畝の四男の伸生さんは父親についてのインタビューで、千畝のことを「非常にストレートに物事をはっきりと言う人だった」と語っています。

そのエピソードの通り、杉原千畝は小さい頃からまわりの意見に流されず、自分の意見をはっきりと持っている人でした。父親が望む進路に反対し、自分の行きたい道に進み、親から経済的な支援を受けられない状況でも自ら人生を切り開いていきました

また外交官になってからも、持ち前の勤勉さから大きな功績を残します。しかし、軍人の横暴な体質や日本の軍国主義に疑問を呈し、間諜(スパイ)の職を拒絶したことで、立場を追われる身にもなりますが、自分の意見を貫きました

そこから海外赴任とユダヤ人へのビザ発行へとつながっていきます。第二次世界大戦当時、日本はドイツと同盟を結んでいる立場にありました。国のことを考えれば、政府の命令通りビザを発行しないことが国益なのかもしれません。

しかし、千畝がここでも大切にしたのは「人としてどうあるべきか」でした。自分の身を危険にさらしながらも、困っている人がいれば助けるという行動、その自分の義を大切にしました。

それは彼の「一晩中、私は考えた。考えつくした。私のしたことは、外交官として間違ったことだったかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。そして、それは人間として正しい行動だった。」という言葉からも感じることができます。

自分の義を貫いた人。それが杉原千畝という人でした。

杉原千畝の名言からの学び。[愛を行動の指針とする]

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迷った時に立ち返るのが愛である

今回の杉原千畝の名言で印象的だったのが

苦慮、煩悶の揚句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。そして私は、何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し終えたと、今も確信している。」

人間にとっていちばん大切なのは、愛と人道だ」という言葉たちでした。

自分の信じる義に従い、結果として多くのユダヤ人を救った杉原千畝ですが、その決断までには国や外交官としての立場など、苦しい悩みがあったのだと、彼の言葉からも感じさせられます。

それでも千畝がユダヤ人救済に立ち上がったのは全ての人を平等に愛するという「博愛の心」に立ち返ったからでした。

正義とは曖昧なものです。それは時代や立場により大きく変化していきます。非人道的と言われたナチスのホロコーストも当時のドイツでは強い国を取り戻すための「正義」とされました。

世の中の常識や正義“とされる”ことに囚われては本当に正しいことをするのは難しいのかもしれません、自分で心から考え行動することが大切であり、そのための指針となるのが「」であると、今回の杉原千畝の言葉に触れて感じさせられました。

人に対する愛、自然や物に対する愛。決断に迷った時、そこに思いやる愛があるのか。自分の一つ一つの決断や行動に愛という指針を持つ事も一つの生き方であると6000人の命を救った杉原千畝の名言から学びました。

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