“日本あっての世界”ではなくて“世界あっての日本”なのです
日本の実業家、盛田昭夫。
終戦後、井深大と共にSONYを創業し、テープレコーダー、トランジスタラジオ、ウォークマンなど様々な商品を開発し「世界のソーニー」と呼ばれるブランドをつくり上げました。
今回はそんな盛田昭夫の名言を紹介し、その言葉たちからの学びである「自分の生き方を考える」について考察します。
盛田昭夫とは?どんな人? 生涯・経歴を紹介
名家酒造の後継として生まれる
森田昭夫は1921年に愛知県で生まれます。家は400年の歴史を持つ酒造りの家系で父親は14代目、長男であった昭夫は15代目の後継として小さい頃から厳しい教育を受けます。
クラシック音楽が好きな母親の影響を受けた昭夫は、小さい頃からモーツァルトやベートーベンなどの名曲に親しんでいました。
またそれと同時にその音楽が流れる蓄音機にも強く心惹かれ、機械いじりに没頭するようになります。
大学では物理学を学ぶ
17歳で中学校を卒業した昭夫は現在の名古屋大学にあたる第八高等学校に入学を試みるも不合格になってしまいます。そのため好きだった機械いじりを止め、1年間の勉強の末なんとか合格することができました。
学校では物理学を学び、その後19歳で大阪帝国大学に入学しました。この頃に第二次世界大戦が勃発したため、大学の研究室も軍の研究機関として使われるようになります。
昭夫も例外なく戦争のための研究や仕事を強いられました。そのな流れのまま、23歳で大学を卒業した昭夫は、海軍の技術中尉となり横須賀で勤務することとなります。
井深大とSONYを創設
そんな時に出会ったのが、後に共にSONYを立ち上げる井深大でした。井深は昭夫よりも13歳も年上でしたが、とても気が合ったと言います。
その後、連絡手段もないまま交流が途絶えた二人ですが、戦争が終わり実家に戻った昭夫が、偶然に新聞で井深が開発した短波受信機の記事を見かけ連絡を取ったことで、再開をはたします。
そして二人は1946年にSONYの前身となる東京通信工業株式会社を設立しました。酒造の後継でもあった昭夫ですが、会社設立の前に井深が昭夫の実家に訪問し、何とか了承を得ることができたと言います。
世界のSONYをつくりあげる
1950年、昭夫が29歳の時にSONYは日本初のテープレコーダーを発売します。しかし前例のない商品のため最初はまったく売れませんでした。そこから軽量化や小型化など改良を加え、徐々に世の中に認知されていきました。
その後もSONYはトランジスタラジオやウォークマンなど歴史に残る商品を次々に生み出します。また昭夫は商品を世界に売るセールスの部分で特に存在感を発揮し、世界のSONYと呼ばれるソニーブランドをつくり上げていきました。
昭夫は72歳の時に脳内出血で倒れると、ソニー代表取締役会長を辞任し療養に励みますが、1999年78歳の時に肺炎のため、その生涯を終えることとなりました。
盛田昭夫の名言
新しい、いいと思ったことは実行する勇気が必要である。ソニーはアイデアがいいと言われるが、じつはアイデアはそれほどずば抜けて良くはないのである。アイデアのいい人は世の中にたくさんあるが、いいと思ったアイデアを実行する勇気のある人は少ない。我々はそれをガムシャラにやるだけである。
いくら性能が優れた製品であっても、お客様に買ってもらえなくては会社に何の価値ももたらさない。
私たちが会社を始めたとき、うちの会社をどうしてやっていくべきか、教えてくれた人は全然いなかった。私たち一人一人が毎日毎日、我々の会社をどうやっていくか、必死になって考えてきた。いまも私たちに、この会社の今後はこうあるべきだ、こういうものを作りなさいと教えてくれる人は誰もいない。
ブランドづくりは、お客様に持ってほしいイメージをあらゆる機会に何度も伝える。
そんなものがまだ生産されたこともなく、誰ひとりそれを見たこともないのに、どこかの一隅でこつこつと研究され、非常な苦心の末、製造された製品。その製品を商品としようとする場合には、その製品を手に入れたいという欲求を、人々の間に喚起させなければ、いかに優れた「製品」であっても「商品」にはなり得ない。
激しい業界の中で、ブランドイメージづくりは並大抵のことではできない。あらゆる機会に、できる限り努力を続けて、顧客の中に、多くの消費者の中に、ソニーファンづくりを努めてきた。広告の面でも、パブリシティを活かすことに努めた。「専門メーカーとしてのソニー」「世界で最初の製品を作るソニー」「技術のソニー」。かくて、全世界にわたって、ソニー製品はハイクオリティ、ハイプライスの一流品であるというイメージの上に立つことができた。
メーカーというものは、売ることまで責任を持つべきだ。
人は誰でも種々様々な能力を持っているものなのに、自分がどんなに優れた能力があるかを知らずにいる場合が多いと思う。どの世界でも、偉人というものはたいて、自分で自分の能力を発見し、育てていった人であろう。
言葉から見た、盛田昭夫てこんな人!
製品を商品に変えた人
終戦後、若くしてSONYを立ち上げた盛田昭夫と井深大。井深は学生の頃に光るネオンを発明し、それがパリ万博の金賞を受賞するなど天才的な技術者でした。
しかし創業まもなくして発表したテープレコーダーは、当時類を見ない商品だったため大衆に受け入れられませんでした。つまりまったくと言っていいほど売れなかったのです。
その時、昭夫が悟ったのが技術が優れて独創的な製品であっても、その価値を理解してもらわないと売れる商品にはならないということでした。
そこから昭夫はセールスに力を入れ、いかにSONYの製品を価値ある商品として消費者に受け取ってもらえるかに尽力するようになります。その姿勢は世界でも貫かれ、世界のSONYと言われるブランドをつくりあげたのでした。
「そんなものがまだ生産されたこともなく、誰ひとりそれを見たこともないのに、どこかの一隅でこつこつと研究され、非常な苦心の末、製造された製品。その製品を商品としようとする場合には、その製品を手に入れたいという欲求を、人々の間に喚起させなければ、いかに優れた「製品」であっても「商品」にはなり得ない。」
という彼の言葉にもあるように、製品を商品に変えた人、それが盛田昭夫という人でした。
盛田昭夫の名言からの学び。[自分の生き方を考える]
自分の適正、生き方を見つける
今回の盛田昭夫の名言で印象的だったのが「私たちが会社を始めたとき、うちの会社をどうしてやっていくべきか、教えてくれた人は全然いなかった。私たち一人一人が毎日毎日、我々の会社をどうやっていくか、必死になって考えてきた。いまも私たちに、この会社の今後はこうあるべきだ、こういうものを作りなさいと教えてくれる人は誰もいない。」という言葉でした。
インターネットやSNS急速に発展している現代社会で、我々はいつでも世界中の情報に瞬時にアクセスできるようになりました。
様々な情報に触れられるため、そこにはいろいろな学びがあります。僕自身もSNSでいろいろな世界のニュースや多様な価値観に触れることで、学ぶことが多いなと感じさせられます。
これらは多くのメリットもある一方で、混乱を招くことも多いと感じます。数多の情報に触れることで、何が正解か分からず混乱し、自分自身を見失ってしまうこともあるかもしれません。
そんな時、盛田昭夫の言葉はとても重要な内容だと思いました。他者から学ぶことはとても大事ですが、それ以上に自分自身で考えることはもっと大事です。
自分が大切なもの、なりたい未来像。それを必死に考える。
十人十色、人間皆違うと当たり前のように言われますが、それは真実で、答えはきっと外ではなく自分の中にしかないのです。
悩みながらも悶え、考え抜き。失敗を繰り返しながら道を切り開いていく。そんな生きる姿勢を盛田昭夫の名言から学ぶことができました。