それでも地球は動いている
地球は太陽の周りを回っているという地動説を唱えたガリレオ・ガリレイ
現代では当たり前のことですが、彼の時代はそれが異端でした。そのため、裁判にかけられたガリレオがつぶやき続けた言葉です。
今日は多くの偉業を残し天文学の父と称されたガリレオの言葉を紹介します。
ガリレオ・ガリレイとは?どんな人? 生い立ち・生涯・経歴を紹介
父親の理解で大学入学
ガリレオは1564年にイタリアのトスカーナ地方で誕生します。
父はイタリアでも有名な音楽家でしたが、生活はあまり豊かではなく、音楽家だけでなく呉服屋も営んでいました。そのため母親はガリレオが大学に行くことにあまり賛成はしていませんでしたが、父親の理解のもと地元のピサ大学に進学します。
その頃の父親の決まり切った常識だけを信じていては真理が見えなくなる。という言葉が、その後のガリレオの人生の支えになりました。
19歳で振り子の当時性を発見
無事に大学に入学したガリレオですが、当時の物理学は1800年以上前のアリストテレスが提唱したものをベースとしており、教授たちもそれが常識として、疑問を持たず授業を行っていたといいます。
しかしガリレオはそれらを検証せずに受け入れることができず、何度も質問し議論しましたが、納得する答えは得られませんでした。そんな大学授業への失望や、また家計の経済状況も良くなかったため、大学を退学し独学で勉強しながら、自分で検証、実験し知識を得ていきました。
そして19歳の若さで振り子の当時性を発見します。この法則は現在の振り子時計にも生かされています。
望遠鏡で天体観測
振り子以外でも落体の法則を検証するためにピサの斜塔から物を落としてみるなど、物理学では実際に実験することを大切にしていたガリレオ。それを今度は天文学でも生かそうと望遠鏡を使い天体観測を始めます。
当時は天動説(地球を中心に惑星が回っている)が信じられていたが、ガリレオはコペルニクスが唱えた地動説(太陽が中心)を信じ、それを証明を試みます。
それでも地球は動いている
しかし当時、絶大な力を持っていたローマ教皇に地動説を唱えたガリレオは目をつけられ、裁判にかけられてしまいます。それには宗教的理由が強くありました。
当時の天動説は聖書の内容とされていたため、それに反する地動説は神への冒頭とされていたのです。ガリレオは2回裁判を受け、抵抗しながらも最後には地動説を提唱しないという書面にサインをします。
しかし、心の中では納得できるはずもなく、裁判が終わった後もギリシア語で
それでも地球は動いている。
と繰り返し唱えていたといいます。
ガリレオの死から350年後の1965年に、その時のローマ教皇パウロ6世は当時の裁判は誤りだったと認め、ガリレオに謝罪をしました。
ガリレオは1642年の1月に亡くなりますが、偶然にも同じ年の12月にイギリスでニュートンが誕生するのでした。
ガリレオ・ガリレイの名言
懐疑は発明の父である。
あらゆる真実は一度発見されれば理解するのは容易だ。肝心なのは真実を発見することだ
聖書は我々にいかに天へ行くかを教える。いかに諸天体が動くかを教えるのではない。
見えないと始まらない。見ようとしないと始まらない。
人にものを教えることはできない。みずから気づく手助けができるだけだ。
言葉や属性こそ、物事の本質に一致すべきであり、逆に本質を言葉に従わせるべきではない。というのは、最初に事物が存在し、言葉はその後に従うものだからである。
書物よりも見たり聞いたりすること、地位よりも経験が第一の教育者だ。
言葉から見た、ガリレオ・ガリレイてこんな人!
自分の感覚を研ぎ澄ました学者。
ガリレオの言葉からは人に教えられるよりも、自分で感じるとること、自分の思考で考えることを大切にしていたのだと感じさせられます。
ガリレオは自分が感じた疑問に対してとても敏感で、それを検証し自分が実際に体感しないと納得できない人でした。大学でもただ教えられてことを理解する生徒が多い中、一人だけ流されず疑問を持ち続けました。
ガリレオはその感覚を最後まで研ぎ澄まし、それを最後まで信じ、証明していった人でした。
ガリレオ・ガリレイの名言からの学び。「自分の目で確かめることの大切さ」
他人の目ではなく自分の目で見る
ガリレオはたとえアリストテレスや聖書など、先人が残した偉大な業績でも、それを鵜呑みにするのではなく、「真実とは何か?」と、まず自分で考える人でした。
最近はネットでもフェイクニュースが横行するなど、何が正しい情報なのか判断が難しい時代です。
同じ事柄でも他の人の目から見た時と、自分の目で見た時では感じ方はきっと違うはずです。何事も自分で体験することが大切なのかもしれません。異端とされた地動説にもかかわらず
実際に観測し、自分の目で見たことを主張したガリレオの言葉から、その大切さを学びました。