子供のころ、ぼくは「のび太」でした
日本を代表する漫画家、藤子・F・不二雄さん。
長く愛されている国民的キャラクター「ドラえもん」をはじめ、「パーマン」や「キテレツ大百科」などの多くの名作を残しました。
今日はそんな藤子・F・不二雄さんの名言を紹介し、その言葉たちからの学びである「理解を得るための忍耐」について考察しました。
藤子・F・不二雄とは?どんな人? 生い立ち・生涯・経歴を紹介
一人で遊ぶのが好きな子供時代
藤子さんは1933年に富山県の高岡市で生まれます。幼少期はあまり体が丈夫な方ではなく、スポーツも苦手だったりと、あまり周りと馴染めなかったようです。
しかし絵はその頃から得意で、一人っ子だった藤子さんはよく一人で空想の世界を描いて遊んでいました。
そして小学5年生の時に運命の出会いを果たします。それが学校に転校してきた安孫子素雄さんでした。安孫子さんもまた一人で絵を描くのが好きな少年でした。
安孫子素雄とコンビを組む
好きなことが共通していた二人はすぐに意気投合し、一緒に映画を見に行くなどいつも遊ぶ仲になります。
そして中学2年生時に二人を漫画家へと突き動かすの手塚治虫さん初の長編漫画「新宝島」が発売されます。この漫画は戦後の日本漫画の原点とされている作品で、二人は「絵が動いている」と衝撃を受けました。
この手塚さんの作品を見てから藤子さんはさらに漫画にのめり込み、手塚さんの作品はいつもチェックし、また自身でも雑誌に漫画投稿をするようになります。
最初はそれぞれで漫画を描いていた藤子さんと安孫子さんですが、高校生になると二人で漫画を描き始め、そこからはコンビで活動するようになりました。
17歳で漫画家デビュー
そして1951年、17歳の時に毎日小学生新聞に投稿した4コマ漫画「天使の玉ちゃん」が採用され、漫画家デビューを果たします。
しかし高校卒業後は二人とも就職の道を選び、藤子さんはお菓子会社に就職します。しかし勤め始めてから数日で会社を辞めてしまい、漫画家に専念することを決断します。
そしてその後、藤子さんは「上京して漫画を描こう」と安孫子さんを誘い、安孫子さんは迷いながらもその夢にかけようと会社を辞め、二人で東京に進出しました。
そして1954年、東京で住み始めたのが、のちに漫画の聖地と呼ばれる「トキワ荘」でした。二人は手塚さんと入れ替わる形でトキワ荘に入り、その後赤塚不二夫さんや石ノ森章太郎さんもそこに加わることとなります。
国民的キャラクター、ドラえもんの誕生
その後は少年漫画ブームの影響もあり、仕事が殺到します。二人は寝る間もなく漫画を描き続けました。そして1964年に「お化けのQ太郎」が大ヒット。このころから二人はコンビだけでなく、それぞれの作品作りも行うようになります。
その後の藤子さんは「パーマン」や「21エモン」などのヒット作を出し、そして1969年に現在も人気アニメとして愛され続けている「ドラえもん」が生まれます。
安孫子さんも「忍者ハットリくん」や「怪物くん」などのヒット作を出し、ほとんどコンビで漫画を描くこともなくなってきた二人は1988年にコンビを解消。その後、藤子さんは名前を「藤子・F・不二雄」にして活動を始めました。
その後もドラえもんを中心に精力的に活動されていた藤子さんですが、1996年にドラえもんの次回作映画を執筆中に鉛筆を持ったまま意識を失い、病院に搬送されます。そしてその三日後に62歳で息をひきとりました。
藤子さんが50年前に生み出したドラえもんは今もなお多くの子どもたちの心を魅了し続けています。
藤子・F・不二雄の名言
「人気漫画」というのは、読者の求めるものと、まんが家が表そうとしているものとが、幸運にも一致したものなのです。
まんがに限らず何か創作する人というのは、自分の中に何かを表現したい、自分以外の人に向かって訴えたいものを自分の中に持っているかどうかが一番大切なことだと思うんです。
物を作るというのは、その人の個性を100パーセント発揮させないとうまくいかないんです。
描くぼくが楽しみ、読んでくれる人も楽しむ、そんな漫画がずっとぼくの理想です。
人気の高い漫画があれば、それを読んでみましょう。わかってもわからなくても、それが現在、自分にとってつまらないからといって否定するのではなくて、どういう所に人気があるのかと、その秘密を考えてみることが大切です。
何事も諦めずに、ねばり強くやっていくことが必要です。わかってもらえないと嘆くより、わかってもらうための努力をしなければなりません。
子どもの夢と願望はすべての人間の基本
言葉から見た、藤子・F・不二雄てこんな人!
個性を漫画で伝えた人
安孫子さんに出会う前の藤子さんは1人で遊ぶことが多い子どもでした。
1人で絵を描いたり、空想したり。その時間が藤子さんの原点でり、彼の感性をつくっていったのだと名言をみても感じさせられます。
現にその頃よく空想していた宇宙やSFをモチーフにした漫画もたくさんあります。
「物を作るというのは、その人の個性を100パーセント発揮させないとうまくいかないんです。」
という藤子さんの言葉にもあるように、自分の経験、個性を全て漫画に注ぎ込んだからこそ、時を超えて愛される作品を生み出せたのだと感じます。
個性を漫画で伝えた人。それが藤子・F・不二雄という人でした。
藤子・F・不二雄の名言からの学び。[理解を得るための忍耐]
理解されることを諦めない
今回の藤子・F・不二雄さんの名言で心に残ったのが「何事も諦めずに、ねばり強くやっていくことが必要です。わかってもらえないと嘆くより、わかってもらうための努力をしなければなりません」という言葉でした。
漫画とは大衆芸術です。藤子さんも言っているように人気の漫画をつくるには多くの読者の心を掴まなければなりません。ですが個性も好みもバラバラな読者の心を一気に動かすのは、並大抵のことではないでしょう。
しかしそれができるからプロであり、プロである以上そこは諦めずぶつかっていかなければならない壁であると藤子さんは語っています。
理解されない。しょうがない。と現実を諦めるのは簡単ですが、現状を嘆くくらいなら、どうしたらより良くなるのかを根気よく考え続ける。
王道から逃げずに突き進む姿勢。多くの人に理解されるには、忍耐強く続ける努力が必要であると、藤子・F・不二雄さんの言葉をみて感じました。
理解されることを諦めない
多くの人々の記憶に残るドラエもんを生み出した藤子・F・不二雄さんの名言からそれを学びました。