アインシュタインの名言からの学び。[空想と想像が生きることを豊かにする]

アインシュタイン 画像 偉人の名言

誰かの為に生きてこそ、人生には価値がある。

ドイツ生まれのユダヤ人物理学者のアルベルト・アインシュタイン

文明をさらに飛躍させた多くの発見たち。その業績の数々は、まさに天才的なものばかりでした。

今日はそのアインシュタインの名言を紹介し、その言葉たちからの学びである「空想と想像が生きることを豊かにする」について書いていこうと思います。

アインシュタインとは?どんな人? 生い立ち・生涯・経歴を紹介

  • 言葉がうまく喋れない幼少期
  • スイスの大学で物理学を学ぶ
  • 奇跡の年と呼ばれた26歳
  • 戦争を嫌い、平和活動へ

言葉がうまく喋れない幼少期

アインシュタインは1879年にドイツ南西部の小さな町、ウルムで生まれます。一家はその後すぐにミュンヘンに引っ越し、父親のヘルマンと弟のヤコブは兄弟で電気機器を製造する会社を始めました。

アインシュタインは3歳になっても言葉がうまく話せなかったと言います。しかしあらゆるものへの好奇心が強く、5歳の時に父親からもらった方位磁石がなぜ決まって北を指すのかに疑問を持ち、このことがきっかけで自然科学に興味を抱くようになりました。

小学生の頃のアインシュタインは特段天才というわけでもなく、歴史などの暗記が必要なものが特に苦手だったと言います。しかし数学や物理学に対しては幼少期から強い関心を示していました。

9歳の時にピタゴラスの定理を知ると、それを自力で証明したり、12歳の時にはギリシア人数学者のユークリッド幾何学やコペルニクスの天文学、ニュートンの物理学などの本を読み、独学で微分や積分学も習得してしまいます。

スイスの大学で物理学を学ぶ

その後、父親の会社の経営が行き詰まると、一家はイタリアのミラノに引っ越します。アインシュタインは学校を卒業しないと大学進学が難しくなるので、ひとりミュンヘンに残りますが、結局学校を辞め家族が住むミラノに向かいます。

16歳の時にスイスの名門、チューリッヒ連邦工科大学を受験しますが、不合格。しかしアインシュタインの物理と数学の点数が最高点だったため、一年間ギムナジウム(高校のような機関)に通うことを条件に特別に入学を許可されました。

無事に大学に入学しますが、アインシュタインは自分の興味ある分野だけに集中し、講義にもあまり出席しなかったと言います。そのため成績は最高か最低かの両極端なものでした。

1900年に大学を卒業、翌年にスイス国籍を取得し友人の紹介で特許庁に就職します。仕事がない時は自分の研究ができたため、アインシュタインにはありがたい環境でした。研究といってもそれ用の部屋などはなく、自宅や仕事場のデスク、通勤路や公園のベンチなど、あらゆる所がが彼の研究所となりました。

奇跡の年と呼ばれた26歳

そして26歳の時、アインシュタインは「光量子仮説」「ブラウン運動理論」「特殊相対性理論」などの重大な論文を立て続けに発表しました。その一つである光量子の論文により、のちに彼はノーベル賞を受けることになります。人々はこの年をアインシュタインの「奇跡の年」と呼びました。

また2年後には質量とエネルギーは等価であるとする有名な数式E=mc²を発表し、フランスの物理学者であるポアンカレキュリー夫人もアインシュタインの論文を賞賛するなど世界的にも注目されていきます。

そしてアインシュタインのもとには次々と大学教授へのオファーが届きます。そしてチェコのプラハ大学、母校チューリッヒ連邦工科大学大学、ドイツのベルリン大学で教授を務め、同時に一般相対性理論などの研究も続けていきました。

戦争を嫌い、平和活動へ

1914年に時代は第一次世界大戦に突入します。アインシュタインは自身の研究も戦争に使われることを危惧し、ヨーロッパの平和を呼びかける「ヨーロッパ人への宣言」で戦争反対を提唱しました。

1916年には一般相対性理論が完成し、のちに皆既日食の実験により星の重力によって光が曲げられるということが証明されます。この一般相対性理論によりアインシュタインは科学者だけでなく世界中の有名人となります。1922年には日本にも訪れており、日本に向かう船の中でノーベル物理学賞受賞の知らせを聞いたと言われています。

第一次世界大戦に敗れたアインシュタインの故郷ドイツは、もう一度強いドイツを取り戻そうと、ヒトラー率いるナチス党が強烈に力を持ち始めます。ヒトラーはユダヤ人迫害でとても有名ですが、アインシュタインもユダヤ人であったことと、平和運動に積極的に働いていたため、彼の財産は取り上げられ、ドイツ国内ではアインシュタインを含めたユダヤ人学者の本はナチスによって燃やされてしまいました

もうドイツには戻れないと判断したアインシュタインはアメリカに渡ります。第二次世界大戦が激化の中、ついに人類は原子爆弾を生み出し、それが日本に落とされ戦争は終わりました。

終戦後の1955年、アインシュタインはイギリスの哲学者ラッセルとともに科学技術の平和利用を訴えるラッセル・アインシュタイン宣言にサインします。そこには「核兵器を持っているということ。このことはすべてに優先して止めなければならない。」と書かれていました。

この宣言にサインした一週間後、アインシュタインは76歳でその人生を終えます。

アインシュタインの名言

アインシュタイン イラスト

大切なのは、疑問を持ち続けることだ。神聖な好奇心を失ってはならない。

常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。

成功という理想は、そろそろ奉仕という理想に取って替わられてしかるべき時だ

私には特別な才能などありません。ただ、ものすごく好奇心が強いだけです。

空想は知識より重要である。知識には限界がある。想像力は世界を包み込む。

自分自身の目で見、自分自身の心で感じる人は、とても少ない。

ある年齢を過ぎたら、読書は精神をクリエイティブな探求から遠ざける。本をたくさん読みすぎて、自分自身の脳を使っていない人は、怠惰な思考習慣に陥る。

言葉から見た、アインシュタインてこんな人!

疑問とやまない好奇心を持ち続けた人

アインシュタインの研究の始まりは「なぜ方位磁石は北を指すのか?」といった、幼い頃に感じた小さな疑問たちでした。しかしこれはアインシュタンだから特別そうであったわけでなく、小さい子どもはだいたい「なんで?どうして?」という言葉が口癖です

それが成長、また教育の中で常識や普通を覚え、「そういうものだから」「それが普通」というような解釈に、知らず知らずなっていくのだと思います。

アインシュタインは言葉の中で常識は偏見であると言っていますが、彼は子どもの時の「なぜ、どうして」という疑問を忘れず、強い好奇心によりそれを探求していきました。

多くの偉大な発見はそんな飽くなき好奇心により成されたものだったのです。

アインシュタインの名言からの学び。[空想と想像が生きることを豊かにする]

他人の知識ではなく、自分の想像で生きる

今回のアインシュタインの言葉で特に印象的だったのが「空想は知識より重要である。知識には限界がある。想像力は世界を包み込む。」という名言でした。

アインシュタインは学生の頃、思考の中で様々な実験をイメージしていたというエピソードがあり、それがその後の相対性理論を生み出す原点とも言われています。

人は大人になるにつれて知識を得て、学んでいきます。しかしそれは先人が獲得したものであり、自分の体験ではありません。知識だけに比重を置いてしまうと、どんどん自分の感性や想像力が失われてしまう。アインシュタインの言葉を見てそんな恐怖すらも感じさせられました。

先人に学び、知識を得ることはとても大切ではありますが、それよりも大切なのは自分の頭で考えること。それは自分にしかできないことであり、たった一つの個性である。

良くも悪くも情報があふれる現代においては、特にこの自分で想像する力の重要性を感じます。

他人の知識ではなく自分の想像で生きる

20世紀の天才、アインシュタインの名言たちからそれを学びました。

今日の英語

  • fancy・・・・空想
  • imagination・・・・想像