心は、水のようなものです。嵐で乱れれば、底の泥が浮き上がって水は濁ります。しかし、水の本質は汚いものではないのです。
チベット仏教の最高位、象徴とされている存在ダライ・ラマ。
その名は指名により引き継がれ、現在の在位はダライ・ラマ14世です。若くして自国を追われながらも長期にわたりチベットの権利、また世界の平和を訴え続けてきたダライ・ラマ。
今日はそんなダライ・ラマ14世の名言を紹介し、その言葉たちからの学びである「明るい人間関係の作り方」について考察しました。
ダライ・ラマ14世とは?どんな人? 生い立ち・生涯・経歴を紹介
2歳でダライ・ラマ としての人生が始まる
ダライラマ14世は1935年にチベット北部にあるアムドで生まれました。家は20軒ほどの小さい集落村にあり、農家を営んでいました。ダライラマは9番目の子どもで、願いを叶える女神の意味を持つラモ・ドンドゥップという名前をつけられました。
そして2歳の時、先代ダライ・ラマ13世が亡くなり、次なる転生者として選ばれることになります。「ダライ・ラマ」とはチベット仏教の法王の尊称であり、輪廻転生を繰り返す存在として先代が亡くなると、その遺言や特徴などから次なるダライ・ラマが見出されるのです。
こうして彼はダライ・ラマ14世となり、家族と共にチベットの首都ラサに移住することとなります。そして6歳の時から仏教哲学や医学など様々な教育を受けるようになります。
15歳で政治全権を引き継ぐ
そしてダライ・ラマが15歳の時の1949年に、中国がチベットを武力侵攻してくるようになりました。このような不安定な状況の中、政治上の全権限が若干15歳のダライ・ラマに引き継がれることとなります。
その後、まもなくしてダライ・ラマはイギリスやアメリカに代表団を送り、中国のチベット侵攻に対する抵抗を求めましたが、2国ともこの問題に積極的に介入することはありませんでした。
そして1951年に半ば強引に「17か条協定」が中国との間で結ばれると、中国のチベットへの軍事介入はさらに進んでいきました。
中国の軍事介入により23歳でインドに亡命
ダライ・ラマは1954年に北京を訪問し毛沢東や鄧小平と和平についての会談を行うも情勢は良くなることはなく、軍事圧力によるチベット民衆の負の感情は拡大、1959年には中国に対するチベット蜂起が起こりました。
これにより中国はダライ・ラマを誘拐するのでは、という情報も流れ、ダライ・ラマはチベット国外に脱出することを決断します。そして同年、隣国のインドに亡命しました。
中国の侵攻によりダライラ・ラマだけでなく、多くのチベット人が国外に亡命し、難民となっていました。インドにも多くのチベット人がおり、ダライ・ラマはすぐにインド政府に掛け合いチベットの子どもたちの学校設立の協力を求めました。
世界中でチベットの現状と平和を訴える
以降ダライ・ラマはインドを拠点にチベットの平和を求め、国際的に目を向けられていなかったこの問題に注目してもらうため、国連でそれを表明し、また1987年ではアメリカの連邦会議において「チベットのための五項目和平プラン」を発表するなど世界各地で精力的に活動を続けました。
ダライ・ラマは非暴力による平和的な解決の姿勢を強く持っており、それは国際的にも大きく指示されまいた。そして1989年にはノーベル平和賞も受賞することとなりました。
2019年現在、84歳になるダライ・ラマ14世ですが、2011年には政治的権力を委譲する声明を発表しますが、その思いは変わらずチベットの平和と世界の平和に向けられています。
ダライ・ラマ14世の名言
他人の何千もの欠点に目をつけるより、自分の唯一の欠点に気付くほうが、よほど役に立ちます。自分の欠点なら、わたしたちは自信をもって、修正できる立場にあるのですから。
誰もが生まれつきの敵であったり、友であったわけではありません。「敵」も「友」も、自分が人々とどう接するかで生まれるのです。
最高の人間関係とはお互いを愛する気持ちのほうが、お互いを必要とする気持ちよりも勝るものであるものだということを忘れないように
わたしたち人間には、愛や思いやりを称えられる能力があります。このささやかな能力こそ、人間のもっとも大切な天分だとわたしは思うのです。
大きな人の流れも、一人の人が動くところから生まれます。もしもあなたが、自分には大したことはできないと思ってしまったら、隣にいる人も意気をそがれてしまい、大きなチャンスを逃すことになるでしょう。反対にわたしたち一人一人が利他的に動くことによって、ほかの人を力づけることができるでしょう。
自分のしたいことが、知らず知らずの内に人の役にたっている形になるまで、修行を積む必要があります。
私たちはこの世界において皆で協力して生きています。だから、どれだけ他人の役に立てるかを、人生の目標にもってこなくてはなりません。
言葉から見た、ダライ・ラマ14世てこんな人!
人を思いやり、人の幸せを願った人
ダライ・ラマがその名の人生を決められたのは2歳という幼子の時でした。
チベットの田舎村のごくごく一般的な家庭に生まれながら、ダライ・ラマとして認定されてからは彼の人生は一変し、チベット仏教の象徴として生きることを決められました。
チベットではチベット仏教は国教とされており、国民のほとんどがその信者です。また宗教指導者だけでなく、政治的な部分でも国内や海外諸国との外交など、多くのものを求められる存在でもあります。
ダライ・ラマは23歳という若さで国を追われながらも、苦しんでいる同民族のことを常に思い、チベットの高度な自治権を目指す活動を続けてきました。そしてそれは常に非暴力に根差したものであり、彼のその思いはチベットだけでなく、世界人類にも向けられています。
それはダライ・ラマの「私たちはこの世界において皆で協力して生きています。だから、どれだけ他人の役に立てるかを、人生の目標にもってこなくてはなりません。」という言葉からも感じることができました。
人を思いやり、人の幸せを願った人。それがダライ・ラマ14世という人でした。
ダライ・ラマ14世の名言からの学び。[明るい人間関係の作り方]
ミカタは自分の態度で決まる
今回のダライ・ラマの名言で心に残ったのが「誰もが生まれつきの敵であったり、友であったわけではありません。『敵』も『友』も、自分が人々とどう接するかで生まれるのです。」という言葉でした。
ノーベル平和賞を受賞するなど、ダライ・ラマの活動は常に平和を意識したものでした。命を狙われる立場でも非暴力を貫き、チベットだけでなく世界規模での平和へと向かう方法を提示していまいした。
この言葉もそんな彼の姿勢をとてもよく表してり、本質的な内容であると感じさせられました。
意識的であれ、無意識であれ、人間は誰しも自分の心のフィルターを通して他人を見ています。特に出会って間もない人などは少ない情報量のなか、「こんな人かな」という予想を立て接することもあるかもしれません。
人間関係が軽薄になっていると言われる現代で、人を信じることも難しくなっていると感じることも多いです。しかし他人を見ているのはどこまでも自分であり、その人をどう位置付けるかも他人ではなく自分の心が決めることです。
「友」とみるか「敵」とみるか。
自分の捉えかたでその態度は大きく変る。融和への握手となるのか人を傷つける拳となるのか。同じ手を使った行動でも心のあり方でその方向は大きく違ってくるでしょう。
最後に決めるのは自分。その決断を人を傷つけるものではなく、楽しませたり喜ばせるものにしていくこと。その小さくても前向きな決断が明るい人間関係と社会を作っていくのかなと、ダライ・ラマの言葉に触れて感じさせられました。
ミカタは自分の態度で決まる。
非暴力でチベットの権利を訴え続けたダライラマ14世の言葉からそれを学びました。