歩け、歩け。続ける事の大切さ
日本で初めて実測による地図をつくった伊能忠敬。
50歳をこえてから20年近くにわたり、日本全国、津々浦々にいたるまで測量を行い、現在の日本地図とも大差のない精密度を誇る地図を作り上げました。
そんな伊能忠敬の名言を紹介し、その言葉たちからの学びである「天命に生きる幸せ」について考察しました。
伊能忠敬とは?どんな人? 生い立ち・生涯・経歴を紹介
将来は学者になりたいと夢みた子ども時代
伊能忠敬は1745年に上総国の小関村(現在の千葉県九十九里)で生まれます。祖父の小関五郎左衛門はその地域をまとめる名主であり、父親は婿養子として小関家に入りましたが忠敬が6歳の時に母が亡くなったことで、小関家をでて実家に戻ることとなりました。
しかし忠敬だけは小関家に残り、寺子屋などで勉学に励むかたわら、村の産業であった漁業の手伝いなどをしていたと言います。そして10歳になった時父親の家に移住しました。
その後はお寺でそろばんを習ったり、医者のもとで医学なども勉強し、将来は学者になりたいという夢を持って育ちました。そして17歳の時、酒造を営んでいる伊能家に婿入りすることとなります。
家業を立て直し、名主として村を助ける
忠敬が婿入りした伊能家は村で一二を争う家柄で、主な事業である酒造の他にも米穀商や金貸、水運業なども手掛けていました。しかし事業は苦しく、新しく当主となった若い忠敬に大きくその期待がのしかかりました。
忠敬は下火だった事業も倹約などを行いながら地道に営み、また江戸に薪問屋を出店するなど本業以外にも力を入れ、30歳を前にして見事、経営を立て直しました。
そして36歳の時には名主となり、全国的に多くの死者を出した天明の大飢饉では役所に年貢の免除を嘆願し、私財をはたいて貧窮した村人たちに米やお金を与えました。そんな懸命な働きもあって忠敬の村では大飢饉による一人の餓死者も出ませんでした。
50歳で31歳の若者に弟子入り
50歳を目前にして忠敬は家督を息子に譲り、隠居することとなります。しかし幼頃から興味を持っていた暦学などを独学で勉強し始めると、本格的に天文学や暦学を学ぼうと江戸に移住します。
江戸では若き天文学者であった高橋至時に弟子入りし、寝る間を惜しんで勉強に励みました。また巨額の資金を投じて自宅に天文台をつくり、日々観測に勤しみます。
そんな時、忠敬は「地球の大きさを知りたい」という好奇心のもと、測量を始めます。しかし、ある程度の正確さを求めるためには最低でも遠く離れた北海道からの観測が必要と考えました。
そして56歳の時、幕府に正確な地図制作をするという名目で、北海道行きを願い出ました。当時北海道はほとんど測量が行われておらず、現在認知されている形とも大幅に違うものでした。
幕府は正確な地図を必要としていましたが、忠敬をあまり信頼しておらず、最低限の援助しか行わなかったため、この測量のほとんどが忠敬の私財によって行われました。
17年をかけて日本地図を作る
約半年かけて北海道の測量と地図を制作した伊能忠敬。その地図の出来栄えは素晴らしく、多くの人を驚かせました。一気に信頼を獲得した忠敬は、その後東北や東日本を皮切りに、日本全国を測量する命を受けます。
忠敬の測量の旅は計10回、17年間に渡って行われる国家事業となりました。自分の歩幅で距離を測るなどの実測であったにもかかわらず、現在の地図と比べても見劣りしないくらいの正確さを誇る地図を作っていきました。
晩年の全てを測量と地図制作に費やした忠敬は最後の地図を作っている途中で体調を崩し、74歳で亡くなりました。その3年後の1821年、弟子たちによってこの地図は「大日本沿海輿地全図」として完成されることとなり、昭和初期まで正式な日本地図として使用されました。
伊能忠敬の名言
後世の役に立つような、しっかりとした仕事がしたい
儲けは後回しにし、お客さんが喜んでくれることをやりなさい
人間は夢を持ち前へ歩き続ける限り、余生はいらない
日本国中測量したことは私の天命でした
天文暦学の勉強や国々を測量することで後世に名誉を残すつもりは一切ありません。いずれも自然天命であります
功成り名とげて身退くは天の道
言葉から見た、伊能忠敬てこんな人!
他人の徳を自分の徳とした人
初めて精密な日本地図をつくった人として有名な伊能忠敬ですが、彼が日本を測量し地図をつくり始めたのは56歳の時でした。
現代で50代は老人とは言えないでしょうが、江戸時代の平均寿命は40~50歳とされており、そんな年齢から日本中を歩き回り、少しづつ地図を作り上げていったのは偉業としか言いようがありません。
しかしそんな偉業の前にも家業の立て直しや、名主として村を飢饉から救うなど多くの功績を残しました。そんな長きにわたる地道な努力がのちの偉業につながっていきます。
先細りの家業を立て直すことができたのは、忠敬の自分の利益より他人の利益をまず考える。という姿勢でした。彼は仕事とは関係なくてもお客さんが身の回りのことで困っていたら、なんでも親身なって話を聞き、助けになろうとしたと言います。
そして従業員にも「儲けは後回しにし、お客さんが喜んでくれることをやりなさい」と言い伝えていました。
そんな利他的に生きた人生が、日本のためにと17年に及ぶ地図作りへ繋がっていったのだと感じさせられます。
他人の徳を自分の徳とした人。それが伊能忠敬という人でした。
伊能忠敬の名言からの学び。[天命に生きる幸せ]
自分を超えた大義に生きる
今回の伊能忠敬の名言で印象的だったが、「日本国中測量したことは私の天命でした」という言葉でした。
この言葉以外にも「天命」という字がよくみられるように、忠敬にとって測量と地図制作が、いかにやりがいを感じ、充実感溢れる事業であったかが伺えます。
現に測量の命令が幕府から言い渡される度に、忠敬は満面の笑みで出発していったと言います。
しかしこの事業始まりは「地球の大きさを測りたい」という自身の知的好奇心を満たすための口実でしかありませんでした。
ですがそこからその好奇心は自身の満足感を満たすものから、日本の為というより大きな大義へと形を変えていきました。そして忠敬と弟子が作り上げた精密な地図は国家機密として厳重に保管されるほど、国にとって大切なものになりました。
自己満足で満たされるものは、自分の中で完結する小さな欲求です。自分を超えるような大義や志、それがまた誰かの為に存在していると実感できた時、人は最大の幸福感を感じるのかもしれません。伊能忠敬が過酷な測量の旅へ満面の笑顔で出かけていったように。
自分を超えた大義に生きる。
日本の形を明らかにするという大義に生きた偉人、伊能忠敬の言葉からそれを学びました。