花はその花弁のすべてを失って果実を見いだす。
インドの詩人・音楽家、ラビンドラナート・タゴール。
代表作となる詩集「ギタンジャリ」で、アジア人として初めてのノーベル賞であるノーベル文学賞を受賞しました。またインドやバングラディッシュ国家を作詞作曲、大学の前身となる学校を設立するなど音楽家や教育者など様々な分野で活躍した偉人です。
今回はそんなラビンドラナート・タゴールの名言を紹介し、その言葉たちからの学びである「適正や役割を見つける」について考察します。
ラビンドラナート・タゴールとは?どんな人? 生涯・経歴を紹介
8歳で詩を創作する
ラビンドラナート・タゴールは1861年にインドのカルカッタ(現在のコルカタ)で生まれます。祖父は商人として多くの財を成した実業家で、父親はヒンドゥー教改革運動組織のトップを務め「偉大な聖者」と慕われる宗教家でした。
そのような裕福な家庭に生まれたタゴールは兄弟と共に幼い頃から様々な英才教育を受けます。幼少期から詩才に優れていたタゴールは8歳の時に「ジョル・ポレ、パタ・ノレ(雨はぱらぱら、木の葉はざわざわ)」という語呂合わせの詩を作り、そこから詩作に心惹かれていきました。
タゴールは詩の他にも小説や戯曲などにも関心を広げていきますが、当時のインドでは文人として生計を立てていくのは難しい時代だったこともあり、そんなタゴールを案じた父親は弁護士にさせようとイギリスに彼を留学させます。
17歳でイギリスに留学
17歳の時にイギリスに渡ったタゴール。ロンドン大学などで学びますが、あまり学校に馴染めず一年半ほどで早々にインドに帰ってしまいます。
それでもイギリスでの経験はタゴールにとって大きいものでした。彼は滞在中に西洋文学、ヨーロッパの音楽、イギリス詩人の作品に触れ、それがその後の創作の糧となっていきました。
インドに戻るとインドの習慣に習い結婚します。結婚当時、妻はわずか10歳の少女で、タゴールは彼女に英語などの語学を教えます。妻も勉強熱心で高い語学力を習得し、この妻との関係もタゴールの文学活動に大きな影響を与えました。
40歳の時に学校を設立
1891年、タゴールが30歳の時、父は彼に家の領地であるシライドホの管理の仕事を任せます。初めてインドの農村地域に暮らすこととなったタッゴールは様々な人々と話をし、またイギリス統治の中働く貧しい農民の現状を目の当たりにします。
タゴールはこの無慈悲な現状を変えようと、組合のような組織を立ち上げ、農業・産業改革に尽力していきます。この時からタゴールは政治や社会問題に積極的に取り組むようになります。
そして40歳の時、タゴールは家族と共にシャンティニケタンに移住します。彼はイギリス式の詰め込み教育だった学校に苦しめられた自身の経験から、同じ思いを子どもたちにさせまいと知性と共に感性を育てる学校を大自然の中に開校しました。
この学校は20年後の1921年に大学化され、現在はインドの国立大学、ヴィシュヴァ・バーラティ国立大学として発展しています。
アジア人初ノーベル賞受賞
しかし学校を設立してまもなくタゴールは度重なる不幸に見舞われます。設立の翌年に妻が亡くなり、また数年のうちに子ども2人に父親と相次いで失ってしまいます。
悲しみの中、心労を癒すべくイギリスへ旅立ったタゴール。旅路で自身の詩集「ギタンジャリ」を英訳し、刊行します。そしてアイルランドの有名な詩人イェイツの目に留まり、彼が絶賛したこの詩集はたちまち話題になります。
そして出版から4年後の1913年、タゴールはアジア人として初のノーベル賞となるノーベル文学賞を受賞します。その後は世界各国を巡礼して周り、アメリカや東南アジア、そして日本にも訪れました。
晩年まで政治、教育また創作活動に邁進したラビンドラナート・タゴールは1941年、80歳でその生涯を終えました。
ラビンドラナート・タゴールの名言
教えることの主な目的は意味を説明することではなく心の扉をたたくことなのだ
不正によって人は栄え、望むものを得、敵を征服する。されど本質においては滅びているのだ。
私はむしろ、大動乱が過ぎ去った後の、歴史の新しい章の始まりを、奉仕と犠牲の精神で浄められた晴朗な大気を待ち望みたい。おそらくそのような夜明けの光は、この地平から、太陽の昇る東洋からさし昇るだろう。いつの日か、不滅なる人間が、失われた人類の遺産を取り戻すために、あらゆる障害を乗り超えて、かつての征服の道を引き返す日が来るだろう。
世界は味わい深く美しい。世界の塵までが美しい。こんな大いなる讃歌を、私は心に歌う。
魂の永遠の自由は愛の中に、偉大なものは小さなものの中に、無限は形態の絆の中に見出される。
人間が自分の人生から学び取ることのできる最も重要な教訓は、この世には苦しみがあるということではなく、苦しみを活用するかどうかはわれわれ次第であり、苦しみは喜びに変わるということである。
人間は孤立すると、自己を見失う。すなわち人間は、広い人間関係の中に、自らのより大きく、より真実な自己を見出すのである。
人生から太陽が消えたからといって泣いてしまえば、その涙で星が見えなくなってしまう。
果実の役目は貴重であり、花の役目は甘美なものであるけれど、わたしの役目は、つつましい献身で木陰をつくる、樹木の葉のようでありますように。
言葉から見た、ラビンドラナート・タゴールてこんな人!
自然を愛した詩人
アジア人として初のノーベル賞を受賞したラビンドラナート・タゴール。詩人として早熟だった彼は8歳の時に初めて「雨はぱらぱら、木の葉はざわざわ」自然の音を持ちいた詩を作ります。
また11歳の時に、本に夢中だったタゴールを見かねた父親は彼を連れてヒマラヤ登山に出かけます。タゴールは雪に覆われた雄大な山並みに心奪われたと言います。
そして30歳の時に領地管理のために住むこととなった、シライドホという場所はとても自然が豊かなところでした。ここでタゴールは創作だけでなく、政治や教育など人生における活動の指針を見つけます。
このようにタゴールの人生には自然が身近にあり、心が感化され、人間の人生や生き方を自然という様々な生命体から学びとっていました。
それは彼の「世界は味わい深く美しい。世界の塵までが美しい。こんな大いなる讃歌を、私は心に歌う。」
「果実の役目は貴重であり、花の役目は甘美なものであるけれど、わたしの役目は、つつましい献身で木陰をつくる、樹木の葉のようでありますように。」という言葉からも感じることができます。
自然と愛した詩人。それがラビンドラナート・タゴールという人でした。
ラビンドラナート・タゴールの名言からの学び。[適正や役割を見つける]
適正や役割を見つける
テクノロジーの進歩により、個人が発信力など力を持てるようになりました。Youtueを代表するように「好きなことを仕事に」の主張が大きく聞かれるようになり、またそれは多様な形で実現できるようになっていると感じさせられます。
好きなことを仕事にする、と一見聞こえは良いですが好きなものを好きでい続けるのもなかなか難しいです。こと仕事になると100%自分の意思だけで成り立つものはなく、様々な外部要因に制限されることもあるはずです。
「好きなことは趣味にするくらいがいい」という人の主張もなんとなくわかる気がします。また好きなことと自分ができること、得意なことはイコールにならないこともあるでしょう。
今回のタゴールの言葉たちに触れ、自然から学べることはとても多いの感じさせられました。動物や植物は生きるのに適した環境を見つけ、そこで生きる。自然の摂理の中でそれぞれの役割を果たして生きています。
人間には人それぞれに適正や役割がある。
能動的に好きなことを見つけ、それを仕事にする幸せもありますが、かたや受動的に自然の流れに身をまかせ、自分にとって居心地が良い場所、自分に適したモノ探すことも大切なのだと。インドの詩人ラビンドラナート・タゴールの名言から学びました。