「どうするか」を考えない人に、「どうなるか」は見えない。
日本の野球選手・監督、野村克也。
野村さんは高校卒業後、無名のテスト生として南海ホークスに入団すると、人一倍に努力を重ね徐々にレギュラーとして躍進していきます。そして戦後初の三冠王に輝き、通算ホームランは歴代2位となる657本を記録しました。また引退後も長きにわたり監督として活躍するなど日本を代表する野球人です。
今回はそんな野村克也さんの名言を紹介し、その言葉達からの学びである「コンプレックスを受け入れる生き方」について考察します。
野村克也とは?どんな人? 生涯・経歴を紹介
幼少期の貧しい生活
野村克也さんは1935年に京都に生まれます。実家は食料品店を営んでいましたが、野村さんが3歳の時に父親が亡くなり、店を手放すことになってしまいます。
母親は看護師をしていましたが、2度の癌を患うなど病弱だったため、野村さんは兄と一緒に小学生の時から新聞配達などのアルバイトをして家計を助けます。
しかし生活はひどく困窮し、野村さんは「お金持ちになって母親を楽にさせたい」という思いから次第に野球選手を志すようになりました。
高校では無名選手
そして中学校2年生の時に野球部に所属します。チームではキャッチャー・4番として活躍しますが「卒業後は進学せずに働いて欲しい」と母親から懇願されます。
そんな時、野村さんのお兄さんが「自分が大学に行かない代わりに克也を高校に行かせてほしい」と母親を説得し、野村さんはなんとか高校に進学することができました。
しかし入学した京都府立峰山高等学校の野球部は廃部も検討されるような弱小校でした。高校3年間の試合もほとんど勝てないまま、野村さんも無名選手として過ごします。
南海ホークスのテスト生として入団
プロ野球選手を諦めきれない野村さんは18歳の時に、新聞に掲載されていた南海ホークス(現ソフトバンク)の選手募集広告に応募し、テスト生ながらプロ野球選手としての第一歩を踏み出します。
しかし1年目は出場機会も少なく、成績も残せなかったこともあり早々に戦力外通告を突きつけられます。しかし、その後チームのキャッチャーに怪我が相次ぎ、人数が足りなくなったことでなんとかチームに残ることができました。
それでも担当マネージャーから「プロでは活躍できないと」烙印を押され、また肩が弱いとキャッチャーのポジションも外された野村さんですが、筋力トレーニングや素振りなど地道な努力を重ね、2軍で打率2位の成績を残すまでになります。
戦後初の三冠王を獲得
プロ3人目には1軍で正捕手レギュラーとして定着した野村さんは、22歳の時に初めて本塁打王のタイトルを獲得します。そこからは毎年のようにタイトルを獲得し、1965年30歳の時には戦後初の三冠王にも輝きました。
選手兼監督としても活躍した野村さんは1980年45歳で現役引退を決断します。引退後はヤクルトスワローズの監督に就任し、ID野球を武器にチームを日本一に導きました。
その後も阪神タイガースや楽天イーグルスなどの監督を歴任し、監督としてもその存在感を強く残しました。そんな日本の野球界を牽引してきた野村克也さんは2020年2月に84歳でその生涯を終えました。
野村克也の名言
支えだよ、生きる支え。家族がいるから頑張れる。家族がいるから何でもつらいことは耐えられる。家族あっての自分です。サッチーさんは消えないわな。永久に消えない。
人生って分からないよ、本当に。やることをやらないと自分にどういう素質があって、どういう才能があるかって分からない、やってみないと。自分で決めつけないことだね。とにかく興味があることをやってみる。それが一番だと思う。
重荷があるからこそ、人は努力するのである。重荷があるからこそ、大地にしっかりと足をつけて歩いていける。
運は、すべて「準備を怠らなかった」から引き寄せられたとも思っている。いつかチャンスが来るから、と信じて練習を続けたからな。準備さえできていれば、突然、目の前に現れるチャンスを逃がさずつかめる。努力なき者はこれができない。それこそが幸運・不運を分ける正体じゃないかな。
自分は特別だという自信と、自分なんて普通の人間だという謙虚さ、その両方を持つ人間がプロとして頭角を現す。どちらかに傾くと消える。
気づくことのできる人は、夢や希望、向上心、自分はこうなりたいという思いを根っこに持っている人です。
「どうせ俺は……」と諦め、くさるタイプのコンプレックス人間は、こう考えたらいい。「諦めた、ということは変わるチャンスだ!」と。諦めた、ということは、今のままではうまくいかない、ことに気づけたということ。それは幸運だよ。
「自分は運が悪いなあ」と嘆くのは簡単。しかし不運には必ず、それなりの理由がある。そして幸運にも、それ相当の過程がある。
言葉から見た、野村克也てこんな人!
準備という努力をし続けた人
プレーヤーとしても監督としても野球界に大きな功績を残した野村克也さん。そんな野村さんが野球を志したのは貧乏から抜け出したいという幼少期の環境が大きくありました。
野球選手になりたくても小学校から働かねばならず、高校も兄の助けがなければ進学することができなかったりと、満足に野球をする環境を得ることも難しかったのです。
無名の高校球児であった野村さんですが、卒業後偶然巡り合ったのが南海ホークスのテスト生募集の広告でした。そして多くの受験生がいる中、難関の試験を通過し、テスト生としての入団を勝ち取ります。
しかし、プロの世界は厳しく早々に戦力外を言い渡されてしまう野村さんですが、そこから一つ一つのチャンスをモノにし、名プレイヤーとして躍進していきます。そんな野球選手としての活躍の影には巡ってきたチャンスに対応するための「準備」という名の大きな努力がありました。
それは野村さんの「運は、すべて「準備を怠らなかった」から引き寄せられたとも思っている。いつかチャンスが来るから、と信じて練習を続けたからな。準備さえできていれば、突然、目の前に現れるチャンスを逃がさずつかめる。努力なき者はこれができない。それこそが幸運・不運を分ける正体じゃないかな。」という言葉から感じることができます。
いつやってくるかわからないチャンスのために常に自分を追い込み、最善の結果を残せる準備をする。そんな姿勢が野村さんを野球選手としてつなぎとめ、また多くの偉大な記録へ導いたのだと感じさせられます。
準備という努力をし続けた人。それが野村克也という人でした。
野村克也の名言からの学び。[コンプレックスを受け入れる生き方]
コンプレックスを受け止めたところからスタート
今回の野村克也さんの名言で印象的だったのが「「どうせ俺は……」と諦め、くさるタイプのコンプレックス人間は、こう考えたらいい。「諦めた、ということは変わるチャンスだ!」と。諦めた、ということは、今のままではうまくいかない、ことに気づけたということ。それは幸運だよ。」という言葉でした。
人は誰しもコンプレックス、自分にとっての弱みを持っています。
たびたび芸能人の自殺のニュースなどをみても、はたから見れば順風満帆で羨ましく感じるような人でも、人それぞれ様々な事情を抱えています。
短所を見るのではなく長所を見て、長所を伸ばす努力をしよう。教育の場などでは特にそういった話も聞いたりします。
それももちろん大切でありますが、長所だけを見るあまり、自分の弱点や弱さを曖昧にし、それを見て見ないフリをしてしまう危険性もあるのでは、とも感じてしまいます。
弱さを隠しその場ではやり過ごせても、その後の未来ではより一層悩むかもしれない。自分の弱さを自覚し受け入れることには勇気と強さが必要で、とても難しいことです。
しかしコンプレックスを含めて今の自分は存在しているのであり、そんなマイナスな要素も自分自身の一部であると気づけたのなら、野村さんの言うように幸運なのかもしれません。
野村さんはまた「幸運にも、それ相当の過程がある。」という言葉も残しています。自分の弱点、弱さに気づいたのなら、それを避けるのではなく真摯に受け止める。そこからが本当の「自分」という人格がスタートするのであり、幸運への過程になっていくのだと、今回の野村さんの言葉に触れて感じさせられました。
コンプレックスを受け止めたところからスタート
様々なコンプレックスを力に変えて躍進した名野球選手、野村克也さんの名言からそれを学びました。