学は貴し。されども精神の貴きに如かず
日本のキリスト教思想家、文学者である内村鑑三
明治初期に活躍し、キリスト教徒でありながら無教会主義を唱え、日本の近代思想にも大きな影響を与えました。
今回はそんな内村鑑三の名言を紹介し、その言葉たちからの学びである「やりたくない仕事をする」について書いていきます。
内村鑑三とは?どんな人? 生い立ち・生涯・経歴を紹介
少年期から英語を学ぶ
内村鑑三は1861年、江戸の町に生まれます。父親が3度自己を鑑みるという意味合いをこめ、鑑三と命名されます。
時代が明治に入ると鑑三は英学校に入り、英語を勉強し始めます。またその後、有馬学校の英語科に入学し1年勉強した後、東京外国語学校に編入しました。
そこで生涯の友となる「武士道」の著者で5千円札の肖像画にもなった新渡戸稲造や植物学者の宮部金吾と出会います。鑑三はこの学校で初めて旧約聖書に触れ、キリスト教を知りました。
札幌農学校に入学
そして1876年に北海道開拓の技術者を育成する札幌農学校の有志学生に立候補し、北海道へ行くこととなります。
札幌農学校の初代教頭を務めたクラーク博士が道徳教育にキリスト教を用いていたこともあり、学生たちも生活の中でキリスト教に触れていました。
鑑三は最初キリスト教に否定的な立場でありましたが、次第にその思想に惹かれていくようになり、最終的にキリスト教に改宗しました。その時にヨナタンというクリスチャンネームを自分でつけます。
単身アメリカへ
学校では水産学を専攻し、農学士として首席で卒業するなど優秀な学生でした。卒業後は北海道開拓使民事局勧業課に務めるかたわら、当時は札幌に教会がなかったこともあり、学校の外に独立したキリスト教の教会を創りました。
1884年には単身、アメリカのサンフランシスコに渡ります。最初は知人の紹介から養護学校の看護人として働き始め、一時は医者になることも考えましたが、最終的に伝道師の道を選びます。
約4年のアメリカ滞在から帰国した後、鑑三は学校で教員となりました。しかし最初に教頭として赴任した新潟の北越学館では、そこの宣教師たちとあまりいい関係が築けないこともあり、わずか4か月で辞任します。
日本初の聖書雑誌の創刊
次に赴任した第一高等中学校では教育勅語への礼拝を十分にしなかったことが不遜とされ、同僚や生徒から非難を浴びます。その後この問題はマスコミのより拡大し不敬事件と呼ばれるようになりました。
弾圧により教師の道を閉ざされた鑑三に追い打ちをかけるように妻が病気で亡くなり、自身も病気を患ってしまいます。そんな鑑三を救ったのが新渡戸稲造などの旧友たちで、札幌を訪れた時に彼らと再会を果たし、徐々に体調も回復していきました。
その後、本格的に伝道師としての道を進むことになった鑑三は、日本で最初の聖書雑誌である「聖書之研究」を創刊するなど、晩年まで精力的に伝道活動に取り組んでいました。そして1930年69歳でこの世を去りました。
内村鑑三の名言
小さな勇気を持て。あなたが思うことができることはあなたができることだということ。
後世へ遺すべき物はお金、事業、思想もあるが誰にでもできる最大遺物とは勇ましく高尚なる生涯である。
一日は貴い一生である。これを空費してはならない。
戦争は戦争のために戦われるのでありまして、平和のための戦争などとはかつて一度もあったことはありません
喜びの声を発すれば喜びの人となり悲しみの声を発すれば悲しみの人となる。
他の人の行くことを嫌う所へ行け。他の人のいやがる事を為せ
誠実から得た信用は最大の財産となる。
言葉から見た、内村鑑三てこんな人!
志を残した人
内村鑑三は北海道で初めての教会を創り、日本で初めての聖書雑誌を創刊するなど、思想家としての偉業を数々残しました。
キリスト教は長い歴史の中で、権力思想や拝金主義など本来の教えとはかけ離れた形に変わってしまった現実がありました。鑑三の目には当時の教会は形だけの観念的なものにうつったのでしょう。
教会という形を信仰するのではなく、個人個人が神を求める姿勢を重要視したのが、その後の無教会主義につながっていきます。
彼の言葉にもある「後世へ遺すべき物はお金、事業、思想もあるが誰にでもできる最大遺物とは勇ましく高尚なる生涯である。」という名言にもあるように、ホントの信仰観を自分自身考え、まわりにも伝えて行きました。
形に残る業績だけでなく、志を伝え残した人。それが内村鑑三でした。
内村鑑三の名言からの学び。[やりたくない仕事をする]
他人の嫌がる仕事を率先してする
今回の内村鑑三の言葉で印象的だったのが、「他の人の行くことを嫌う所へ行け。他の人のいやがる事を為せ」という名言でした。
きつい、辛い、めんどくさい、汚い、臭い、痛い、などなど人間はマイナスな感情が働く事はやりたくないというのが普通です。
この前ニュースで今後時給が高くなる仕事はトイレなどの清掃の仕事だと伝えていました。人がやりたがらない仕事は自然と時給が高くなる理論のようです。
自分がやりたくない仕事は、誰かが代わりにやってくれているから社会はまわっていて、当たり前のように家で暮らし、ご飯を食べる事も見えない誰かの関与なくてしては成り立ちません。
自分がやりたいことをするのは人間に欲望がある以上、ある意味簡単なことです。しかし誰もやりたがらない事を率先してできる人はきっと希少で、そんな人は自然と尊敬してしまいます。
前回紹介した渋沢栄一は資本より信用を重要視していましたが、人が嫌がるようなめんどくさい事を進んでできるその姿勢が、信用につながっていくのかもしれません。
他人の嫌がる仕事を率先してする。
近代を代表する思想家、内村鑑三の名言からそれを学びました。