
少年よ、大志を抱け。
アメリカ合衆国出身の教育家、科学者であるウィリアム・スミス・クラーク。
日本では「クラーク博士」として広く知られ、明治時代に札幌農学校(現・北海道大学)の初代教頭として招聘されました。わずか8ヶ月間の滞在でしたが、キリスト教精神に基づく全人教育を実践し、内村鑑三や新渡戸稲造ら、後の日本を代表する指導者たちに深い感化を与えました。
今回はそんなクラーク博士の功績と名言を紹介します。
ウィリアム・スミス・クラーク博士とは?どんな人? 生い立ち・生涯・経歴を紹介

マサチューセッツ州に生まれ、ドイツで博士号を取得
ウィリアム・スミス・クラークは1826年にアメリカ合衆国マサチューセッツ州アッシュフィールドで、医師の息子として生まれました。地元で教育を受けた後、1844年にアマースト大学に入学し、1848年に卒業します。
卒業後は母校などで教鞭をとった後、更なる学問を求め、当時、学問の中心地であったヨーロッパへ留学します。1850年から1852年にかけてドイツのゲッティンゲン大学で学び、化学の博士号を取得しました。
彼の専門は化学、植物学、動物学など多岐にわたりましたが、学位論文のテーマは隕石の化学構造に関するもので、鉱物学にも深い関心を示していました。
南北戦争に従軍し、マサチューセッツ農科大学長となる
帰国後、母校アマースト大学で教鞭をとる傍ら、南北戦争(1861年-1865年)が勃発すると、クラークは教職をなげうち、熱意をもって北軍の軍人として従軍しました。彼はマサチューセッツ州第21連隊に入隊し、勇敢に戦い、最終的には大佐まで昇進するほどの戦歴を残しました。
終戦後、彼は教育界に戻り、1863年に新設されたマサチューセッツ農科大学(現・マサチューセッツ大学アマースト校)の教授に就任します。そして1867年には第3代学長に就任し、大学の発展に尽力します。この大学での実績が、後の日本からの招聘に繋がります。
札幌農学校初代教頭として来日し、全人教育を実践
明治維新後の1876年(明治9年)、北海道開拓使長官黒田清隆は、開拓を担う指導者の育成のため、クラークを札幌農学校(現・北海道大学)の初代教頭として招聘しました。クラークはマサチューセッツ農科大学の学長を休職してこれを受け入れ、同年7月に来日します。
彼はわずか8ヶ月間という短い在日期間でしたが、単に農業技術や科学知識を教えるだけでなく、キリスト教精神に基づいた人格教育を重視しました。特に、校則について黒田長官に「Be gentleman(紳士であれ)の一言があれば十分」と進言した逸話は、彼の教育方針をよく示しています。学生たちは彼の指導と人柄に感化され、内村鑑三や新渡戸稲造など、後に日本を代表する人物が育ちました。
帰国後の波乱に満ちた晩年と、言葉の遺産
1877年(明治10年)4月、クラークは任期を終えて帰国する際、札幌郊外の島松(現・北広島市)で教え子たちに有名な「Boys, be ambitious」の言葉を贈り、日本を去りました。
帰国後、彼はマサチューセッツ農科大学の学長職を辞し、豪華客船で世界を回りながら学ぶという「洋上大学」構想など、斬新な事業を企図しますが、これは失敗に終わります。その後、知人と設立した鉱山会社も破産し、晩年は訴訟問題や心臓病に悩まされるなど、不遇な日々を送りました。
しかし、彼の短い日本滞在で残した教育の種は、札幌農学校とその後の北海道大学を通して、日本の近代化と国際教育の基盤を築きました。クラーク博士は1886年に60歳で亡くなりましたが、彼の進取の精神と教育理念は、「少年よ大志を抱け」という言葉と共に、今なお日本に生き続けています。
クラーク博士の名言|短いひとこと名言


金や私利私欲のためにではなく、人類のために、またこの国のために。

永遠の真理を、科学をもって探求せよ。

知識は力なり。しかし、それを善用する知恵がなければ、知識は危険である。

最善を尽くせ。残りは神が補う。

自然を愛せよ。そこには無限の学びがある。

困難を恐れるな。それは君たちを強くする試練である。

知識の扉は、常に開かれている。君たちがそれを叩くかどうかだけだ。
